【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方 ≪40≫』

暴力と階級 その① 暴力について

   
   
この連載でも度々書いているが、東九条多文化共生エリアで「平山が暴力をふるった」というデマが流れている。
   
そのデマで言われている「暴力」とは、平山がこれまでにしてきた様々な個人、 集団に対する「抗議」のことを指している。
   
改めて書くが、平山は暴力を振るっていない。平山は「抗議」をしてきたけれど、「暴力」は振るっていない。
   
だが、その「抗議」を「暴力」だと認識する者が東九条多文化共生エリアにはいる。
   
この現象は非常に興味深い。何故、大学を出て教養もあり人権意識の高い「階級」が上のエリート層たちは平山の「抗議」を「暴力」だと認識するのか。 ここには「暴力」と「階級」の切っても切れない関連を見て取ることが出来る。そのことについて考えてみたい。
   
「事実」として平山は暴力をふるっていない。
   
だが、
   
「本質」として平山は暴力である。
   
暴力における事実と本質が混同されるとき、正当な抗議が暴力とされ、不当な排除が起きる。
   
平山はこの連載を書くと同時に様々な個人、団体に対して抗議活動をしている。 抗議といっても①質問、②申し入れ、③抗議、という段階はあるのだが、その状況によって①質問から始める時もあれば、いきなり③抗議をする場合もある。 だが、①②③どれをするにしても平山はまずメールを送るまえに必ず「電話」をする。 平山剛志という名前、東九条地域住人であること、在日韓国人であるという属性を伝え、①②③のいずれかの趣旨を伝えた上で、詳細をメールでこれから送りますが読んで頂けますか? と確認をとってからメールを送る。ミナミの帝王の萬田銀次郎は必ず敵の本拠地に直接乗り込んで「挨拶」をしてから戦いを開始する。 現実にはいきなりその組織に乗り込むのはヤカラが過ぎるのでやらないのだが、まず電話で直接自身の声で伝えるというのは萬田銀次郎から学んだことである。 電話で連絡がとれない場合はメールを送るなどするしかないのだが、例え電話であっても直接話をして伝えるというのは大切なことだと感じる。 何故ならそれはお互いを「他者」化する儀式のようなものだからである。それが例え「抗議」であったとしてもこれからお互いが「他者」として「人間」として関わるための儀式である。 念のために書いておくが、もちろんその電話で相手に罵声を浴びせたり怒声を浴びせたりはしていない。それでは「他者化」はできない。
   
だが、東九条多文化共生エリアのある者が言うには、その電話すら「暴力」だという。そしてメールを送ることも「暴力」だそうだ。 つまり抗議すること自体が暴力であるらしい。まずは話し合いをしましょう、と。だがその話し合いをしてくれないから「抗議」しているわけで、 そしてその人になぜ平山が抗議をしているのかその理由を知っているのかを聞いても理由はわかっていない。理由はどうでもよくて、抗議自体が「暴力」なのだという。
   
この連載において京都市 地域・多文化交流 ネットワークサロンの施設長前川修のことを名前を出して激しく非難し糾弾している。 もちろんそれにはそれ相応の理由があるから激しく非難をして抗議をしている。 だが、それを読んだ東九条多文化共生エリアの関係者から「あれはよくない」だの何だの非難を受ける。 これもまた内容はよく読まず、文章をネットに書くこと自体が「暴力」であるという認識に基づく不当な非難である。
   
「平山が暴力をふるった」というのはデマである。
   
だが、平山の「抗議」を「暴力」だと認識している者たちが東九条多文化共生エリアにいる。 だから彼女彼らにとって、平山が「暴力をふるった」というのは事実だと認識されている。何故なら「抗議=暴力」という認識だから。
   
何故このような認識がおきるのか?これは感じ方の問題ではない。
   
「暴力」に対する「世界観=他者理解」の問題である。
   
事実として平山の「抗議」は「暴力」ではない。
   
だが、
   
本質として平山の「抗議」は「暴力」である。
   
この事実と本質を混同しているから、平山の抗議を暴力だと認識してしまう。
   
さて、ここから暴力のことを議論する前に大前提として、平山は暴力を肯定しない。 平山自身がかつて肉体的、精神的な暴力を受けてきた者として、幼少期の暴力体験がその後何十年もその人生に悪影響を与え続けるということを身をもって知っている者として、 不当な暴力を肯定することは絶対に無い。そのことを大前提に書く。
   
人間の根源は暴力である。
   
確かに、
   
事実として平山の「抗議」は「暴力」ではない。
   
だが、
   
本質として平山の「抗議」は「暴力」である。
   
それはつまり、「抗議」だけではなく、絵を描くこと、書くこと、踊ること、歌うこと、食べること、買うこと、売ること、読むこと、話をすること、笑うこと、 集まること、ひとりでいること、愛すること、愛されること、愛さないこと、愛されていること、…こと、…こと、…こと、
   
人間のありとあらゆる「こと」は暴力であり、人間の根源は暴力である。
   
暴力はいけません、話し合いで解決しましょう、というけれどもその「話し合い」とやらもその本質は「暴力」なのだ。
   
そのことを理解体感した上で話し合いをしない者こそがその話し合いとやらで「無形の暴力」を行使することになる。特に「階級」が上の者ほどその「無形の暴力」を行使する。
   
暴力に関して二つの「世界観=他者理解」がある。
   
①人間の根源は暴力であるということを理解体感した上で生きる「世界観=他者理解」。
   
②人間から暴力を切り離して、暴力を悪だとして排除して生きる「世界観=他者理解」。
   
例えば「話し合い」というが、相手に「理解させる」「説得する」「考えを変えさせる」「自分の話を聞かせる」なんてのは暴力以外の何ものでもない。 ことばによって現状変更を迫っているわけだから。だが、話し合いの相手が「心底納得」したならばその「話し合い」は「暴力」とは感じられないだろう。 だが「納得」が起きなかった時、その「話し合い」は精神的な暴力となる。
   
暴力といっても、肉体的に直接相手を傷つけ、命そのものに傷をつける暴力から、ことばや態度による精神的な暴力、 構造や仕組みによってその人の人生そのものを支配する社会的な暴力、様々ある。
   
事の本質は、それがケンカであれ、会話であれ、会食であれ、メールであれ、満員電車ですし詰めになることであれ、何であれ、
   
どんな「こと」においても、
   
人間と人間は生命の直接的なやりとりをしているということである。
   
その、「生命の直接的なやりとり」そのものこそが暴力なのだ。
   
恋人などの親密な関係では無い者に身体に触れられることは暴力である。だが親密な関係である者とならば身体的な接触は楽しみや喜びを生じさせる。
   
同じ「人間と人間の生命の直接的なやりとり」においてそれが「暴力」と感じられ傷つく時と「喜び」と感じられる時がある。
   
相手を「殴る」ことも相手にやさしく手を「触れる」ことも同じ身体的な接触である。同じ「人間と人間の生命の直接的なやりとり=暴力」である。
   
だが、そこには繊細さやバイブレーションの違いがある。
   
人間のあらゆる営み、「こと」の根源が暴力であることを認めた上で、その暴力を荒々しく他人や社会を傷つけるものではなく、 その暴力を精錬しそのエネルギーを繊細なものにし、他人や社会を傷つけない「人間と人間の生命の直接的なやりとり」をすること。それこそが本当の「非暴力」である。
   
だが、東九条多文化共生エリアの階級上昇した者たちはちがう。暴力を精錬するのではなく、暴力を非人間的な絶対的な悪として人間から「切り離して」排除する。 だからこそ彼らは平山の抗議そのものを暴力だ、それは悪だと断罪し平山ひとりをスケープゴートにして終わらせようとする。 そしてここに「暴力=悪」「非暴力=善」という単純な世界観による他者理解システムが成立し、それは他者を単純に敵と味方に分けてしまう。 そうしてそこに「東九条多文化共生ムラ社会」が完成する。
   
だが、暴力を人間から切り離すことは偽りの「非暴力」だ。そんなことはできはしないのだから。 そしてそれは人間が人間であることの否定なのだ。 なぜなら彼らは暴力を人間そのものから排除した代わりに、「人間と人間の生命の直接的なやりとり」そのものを排除することになるからだ。
   
平山の文章は怖いとよく言われる。それはそうで、何故なら平山は「人間と人間の生命の直接的なやりとり」をしようとしているからである。
   
だが、平山の「抗議」は直接的に肉体的な暴力をふるっているわけではない。本当は殴りたい。 奴らのやったことはあまりにも非人間的で、かつて東九条を生きた死者たちを侮辱する歴史破壊を繰り返してきたからである。
   
だが平山はその内なる暴力をことばへと精錬して、抗議文として出している。
   
だから確かに平山のことばのその「本質」は「暴力」だ。
    
おれはこのことばによって「人間と人間の生命の直接的なやりとり」をしようとしているからである。
   
だが何故そんなことをする必要があるかといえば、「人間であること」を破壊されたからである。
   
おれは人間であることを回復再生したい。
   
ならば、「人間と人間の生命の直接的なやりとり」をするしかない。
   
おれはそれを「ことば」でやっている。
   
抗議とは言うけれども、実は抗議対象に何か被害の回復を求めている訳ではない。
   
他者性の無い盆暗どもに、人間であることの回復など望むべくも無いことだからだ。
   
だからおれは、この「ことば」を死者たちに捧げることで「人間と人間の生命の直接的なやりとり」をしている。
   
他者にもならない他者たちに求めるものなど何もない。
   
おれは絶対他者である死者たちとの交流交歓によって「人間と人間の生命の直接的なやりとり」をし、人間であることを回復再生している。
   
この抗議はその儀式である。
   
儀式と書いたが、儀式とは暴力を直接あつかう営みである。
   
儀式とは暴力の精錬、変容による世界の回復再生新生である。
   
儀式なんて書くとさらにおどろおどろしい印象を与えてしまうが、儀式の基本は挨拶である。
   
おはよう、ありがとう、ごめんなさい。
   
これは人間に対してだけ使うことばじゃない。
   
近所の野良ねこにも、晴れた空にも、雨雲にも、雨がおちた水たまりにも、水をためる地面にも、クラクションを鳴らす車にも、 落ちた本にも、開かないペットボトルにも、月の影にも、後ろからおれを見ていた星にも、おはよう、ありがとう、ごめんなさい、である。
   
世界にあいさつする時、その瞬間、世界は再生する。
   
それは「世界と人間との生命の直接的なやりとり」である。
   
そしてその「世界と人間との声明の直接的なやりとり」を「傷のつけ合い」や破壊的なものにしないために、おはよう、ありがとう、ごめんなさい。がある。
   
人間と人間、あるいは人間と世界とのやりとりの本質が「生命の直接的なやりとり」である以上その本質は「暴力」であり、 ふとしたきっかけが原因でそれは「破壊的」な結果をもたらすことがある。
   
だからといってそれを「暴力」だと人間や世界から「切り離し」、 「悪」のレッテルを張って社会から排除するのは「生命の直接的なやりとり」そのものを人間や世界から切り離す非常に非人間的で反生命的な危険な営為である。
   
だが、生命は「暴走」する。暴走した生命は「暴力」となる。だからこそその「生命」を精錬し「かたち」にする「歴史」が必要なのだ。
   
「歴史感覚」こそが「生命の直接的なやりとり」を「非暴力」なものにするのだ。
   
「歴史感覚」とは具体的な歴史のことではなく「死者たちに生かされている」という感覚のことである。「生かされて在る」者が他者や世界を破壊し攻撃する必要は無い。
   
ひとつの倒錯がこの社会に起きている。
   
人間から切り離された「生命」が今、「暴発」している。そしてその「生命の暴発」が歴史を拒絶し歴史を破壊して回っている。 浜辺ふう=山崎なしのやっていることはその典型である。浜辺ふう=山崎なしに必要なのは「歴史による生命の去勢」である。
   
大切なことは、暴力を人間から切り離して悪として断罪することではない。
   
逆だ。
   
人間の根源は暴力であるという「現実」を引き受けること。
   
人間の根源は暴力であるという「原罪」を引き受けること。
   
「人間と人間の生命の直接的なやりとり」は暴力であるということを引き受けること。
   
そして「人間と人間の生命の直接的なやりとり」が他人や世界を傷つけ破壊しないように、その暴力をよろこびや楽しみに精錬させ変容させること。
   
「人間と人間の生命の直接的なやりとり」によって世界を再生新生すること。
   
である。
   
自らが悪であることを引き受けることができない、「よい人でいたいだけの大人」
   
人間の暴力性を引き受けることができない「大人もどき」
   
おまえらのそんな「おとなごっこ」「多文化共生ごっこ」に付き合うつもりはさらさらない。
   
おれは
   
歴史とともに生命を精錬させる
   
生命とともに歴史を生かす
   
歴史に生かされた生命が生きること、それが人間が人間であるということだ。
   
死に生かされた生命、それが人間だ。
   
おれは人間として生きて死ぬ。
   
おれは人間として死んで生きる。
   
おれは人間としてこの暴力を生き切る。
   
暴力は呪い。
   
呪いは運命。
   
だけどおれはこの運命を愛している。
   
あなたという幻想。
   
わたしという幻想。
   
暴力を人間から切り離すという「幻想=わたし」が人間を破壊している。
   
あなたという虚無
   
わたしという虚無
   
「人間と人間の生命の直接的なやりとり」を人間から切り離すという「虚無=わたし」が世界を消滅させている。
   
今、
   
この身に宿る、燦然と輝く暴力が
   
幻想を光へ送り、虚無を影に返す
   
この身に宿る燦然年の暴力が
   
世界を再生する
   
この身に宿る燦然年の暴力が
   
死者を再生する
   
この身に宿る燦然年の暴力が
   
他者を再生する
   
燦然年の
   
暴力が
   
その手で
   
そっと
   
触れる時
   
世界が笑う
   
     
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参考文献
     
渡辺哲夫 「二十世紀精神病理学史序説」 西田書店


   






   


   



    

   

    

2026年5月31日

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