【連載】『東九条、死者無き多文化共生の行方 ≪43≫』

「宙」のまつり東九条マダン

 その③ 「宙」に集う「衆」

   
   
   東九条マダンは「多文化共生のまつり」と言われているが、実際にまつりに関わっている人間が「多文化共生」を意識しているかといえばそんなことはない。 全員に聞いて回ったわけではないので確かな事は言えないが、運営に関わっている参加者は「マダン」をやっているのであって「多文化共生のまつり」をやっているわけではない。 それは平山が五年ほどこの「東九条マダン」に関わって感じている事である。
   
 東九条マダンは「だれもが参加できるみんなのまつり」であり、その事に関しては全員が一致して全力を尽くす。誰の事も排除しないということに関して最大限の努力を尽くす。 それは事実である。ただ、「構造」として東九条地域「一階」の住人は運営に参加しにくい、またその「構造」故に地域住人は東九条マダンに興味すらない。
   
 東九条マダンに参加する者はあくまで個人としての参加である。 とある東九条マダンの古参のメンバーに聞いた話では、東九条マダン立ち上げ時は自分が属する団体の思想の違いから発生するいざこざがあり、 それを持ち込むととてもじゃないがマダンができないので、東九条マダンに参加する際は、あくまで「個人としての参加」であり、 その個人の集まりが東九条マダンなのだということにしたのだ、ということであった。東九条マダンに自分が属する集団の思想を持ち込むことはできない。 つまり極力政治性を排するという非常に高度な政治的な運営形態がとられている。
   
 そしてこの「個人としての参加」という形態は逆に言えば「根無し草でなければ参加できない」、ということでもあるのだ。 その政治性や思想を東九条マダンに持ち込むことが出来ないということは、つまり、東九条に住む在日韓国朝鮮人であっても、東九条マダンに「在日性」を持ち込むことはできないし、 「東九条性」をもちこむことはできないということである。ここに東九条マダンの特異性がある。 東九条マダンは「わたし」に纏わる地縁、血縁、思想、政治性、歴史性を意図的に切りはなした「個人」として参加しなければならない。「東九条マダン」であるにも関わらず、だ。
   
そう、東九条マダンに参加するためには主体を「宙」にしなければならない。
   
東九条マダンに参加するためには「仮想的」に「縁」を断ち切って「無縁」の状態にならなければならない。
   
その「仮想」性こそが朝鮮文化のコスプレイベントという「仮装」性を生んでいる。もはや仏教の修行に近いものがあるのではないか。しらんけど。
   
 だがこれこそが平山が東九条マダンに参加するさいの苦しさであり違和感である。東九条マダンには「東九条的な何か」を持ち込むことはできない。「在日的な何か」すら持ち込むことはできない。 「東九条マダン」であるにも関わらず。だから、地縁血縁を生きている東九条地域「一階」の住人は東九条マダンにほとんど参加しない。 そして逆に東九条の「外」からやってきた「無縁」の者にとっては魅力的な「まつり」に見えるのかもしれない。
   
もちろん東九条マダン当日は様々な団体や個人がブースを出していて各々の思想や表現や主張をそこでしている。だが、東九条マダンの「運営」には個々の思想や政治性を持ち込むことはできない。 だから、東九条マダンは多文化共生のまつりと言われるが、根本的にその在り様が全く違う。 多文化共生は他者の国籍、民族性、政治性、思想、違いなどの個々の「われわれ」を尊重したうえで関係するということであり、 多文化共生は他者を排除しない限りその場に自らが属する「われわれ」を持ち込んでもよい。だが東九条マダンは属性や地縁血縁を切り離した「個」として参加する必要がある。 そのバックボーンである「われわれ」を意図的に切り離した「個人」の集まりが、朝鮮の文化のコスプレイベントを集団でする、というまことにけったいな「まつり」が東九条マダンである。
   
それは多文化共生というよりは「無文化共生」「無縁化共生」とでもいうべきものであり、「朝鮮文化」はその「無文化」のアイコンとして機能しているだけである。
   
連載「宙」のまつり東九条マダン その③ に書いた生野民族文化祭に参加できるのはこのような「宙化」された「個人」ではない。あくまで「民族」としての在日韓国朝鮮人である。
   
この、地縁、血縁、思想、政治性、歴史性を意図的に切り離した、あるいは切り離された「宙化した個人」の集まりという「根無し草性」「無縁化」こそが東九条マダンの「宙」性の根本である。 意図的に持ち込まない、意図的に切り離している、だから「関係なくなはい。なくはないが、…」構文で語られる「まつり」となる。
   
平山は東九条マダンに東九条を持ち込もうとした。だから軋轢が起きたのかもしれない。 そんな軋轢をも吸収する「宙性」が東九条マダンにはあるのだが、だが平山にとってそれは意味不明な手ごたえのあるような無いような表現としかなりえず、自分でも何をやっているのかよくわからなくなってしまう。 この「まつり」の何がおもしろいのかおれにはよくわからない。
   
東九条マダンのあるメンバーに言われたことがある。「平山君が言っていることはよくわかるし、平山君が違和感をことばにしてくれることはとてもありがたい。 だけど、平山君が言ってる東九条のことを東九条マダンで議論したら東九条マダンは空中分解する。」これは平山を黙らせようとしてそう言っているわけではなく、現実問題としてそうなのだと平山も感じる。 東九条のこと、在日韓国朝鮮人の事を東九条マダンで真剣に議論すれば恐らくこの方の言っているとおり「空中分解」するだろう。 「宙」と「空中分解」は紙一重。だから東九条マダンには東九条のことも在日のことも持ち込むことはできない。
   
だが疑問なのは、そんな東九条マダンに参加する者たちはその「まつり」でいったい何を回復したり再生したりするのだろうか? 生野民族文化祭は明確に、在日韓国朝鮮人の奪われた、失われた民族性やアイデンティティを回復再生するという意図や結果があった。 だが地縁、血縁、思想、政治性、歴史性を「意図的に」切りはなした「個人」の集まりが朝鮮文化のコスプレをすることでその「個人」の中で一体何が回復再生創造されるのだろうか????? そして何故このけったいな「まつり」に毎年四~五千人もの人が集まるのだろうか?
   
多文化共生のまつりですらない、
   
「無文化共生」のまつり東九条マダン。
   
「無縁化共生」のまつり東九条マダン。
   
「宙」のまつり東九条マダン。
   
東九条マダンに運営として参加する人、当日ブースだけ出す人、出店を出す人、楽器だけ演奏する人、プログラムに外部から参加する人、観客として参加する人、 「宙」に集うこれらの人、人、人、人、の「衆」は一体何の衆なのだろうか?
   
市民?民衆?大衆?
   
東九条マダンで「衆」といえば「民衆文化運動」
   
連載次回は「民衆文化運動」と東九条マダンについて検証してみたいと思う。

   

2026年6月19日

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