民衆とは何なのか。民衆とは誰なのか。
平山は、民衆を
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
と言いたい。
差別とは端的に人間を人間扱いしないということである。貧困は人間が人間らしい生活や人生を送れなくする。
ここで問題になるのは、では「人間とは何なのか?」あるいは「人間らしさとは何なのか?」ということである。
平山はこの連載において終始「階級」の問題を書いてきた。「一階」「二階」「三階」…階級が上がれば上がるほど、生まれた時からすでに「人間であることが保証」されている。
「一階」や底辺層の人間、あるいは被差別の属性をもって生まれた者は、生まれた時から人間であることが保証されていない。
もちろん、制度の建付け上、全ての人間が憲法や憲章などで無条件に「人間であること」は保証されており、全ての人間は「平等」であると明言されている。
それはヒューマニズムではなく、近代国家や資本主義が成立するための条件だからだ。
だが、現実にはこの社会にはいろんな差別があり、階級による格差がある。現実には、生まれながらに「人間であること」が保証されている者と保証されていない者がいる。
人間であることの定義は様々あるのだが、この社会において「人間」ということばは、「同一性」を保証するために機能する。
つまり、韓国人も日本人もアメリカ人もインド人もフランス人も…人も、「同じ人間だ」という「同一性」を保証する機能を「人間」ということばは駆動させる。
何人であろうと「同じ人間」であるから人種や民族の間に優劣をつけることは「差別」であり社会として許容されることではなくなる。
当然この「同一性」は国籍や民族だけでなく、「男性も女性も同じ人間」「障害者も健常者も同じ人間」「異性愛者も同性愛者も同じ人間」というように、
あらゆる「属性」に対しこの「同じ人間だ」という「同一性」は適用される。そして「差別」はこの「同一性」を毀損する。
だが一方、
「同じ人間」だが、韓国人と日本人とアメリカ人とインド人とフランス人と…人と、は「異なる人間」である。
異なる言語を話し、異なる文化をもち、異なる生活様式があり、互いが互いにとっての「他者」である。
つまり、「同じ人間」の間にも「差異」があり、その「差異」は尊重されなければならない。
その「差異」が無視され尊重されない時、悪しき「同化」や植民地化が起きる。
「社会的人間」にはこの「同一性」と「差異」を両立させなければならないという難題がある。
そして平山がこの連載で言い続けている「他者」もまた、「差異があると同時に同一性」がある存在である。
「差異」と「同一性」が両立されているからこそ、この近代社会で「わたしとあなた」あるいは「わたしと社会」は相互に関わることができる。
ちなみに「同一性無き差異」は「絶対他者」であり、穢れとして社会的の境界の外に完全に排除されるか、聖なるものとして異界に排除されるかである。
一方、「差異無き同一性」は「無他者」であり無他者の社会は「閉じた社会=ユートピア」となりカルト化する。
現在東九条地域における多文化共生で起きていることはこの「差異無き同一性」であり、浜辺ふうの主張の根幹にはこの「差異無き同一性」がある。
平山が、東九条多文化共生エリアと関わりを持ちたくないというのは、この地域がカルト化しているからである。
実際に多文化共生をユートピアか何かだとかん違いしている者もいる。
「一階」「二階」「三階」と階級が違う者が「同じ人間だ」と言ったとてそれは「同じ人間」ではない。
「一階」の者は「同じ人間」になりたくてあらゆる方法で必死で「階級上昇」しようとしてきた一方、
生まれた時から人間であることが保証されている「二階、三階」の者とでは「同じ人間であること」の重みや意味や価値が違う。
そもそも生まれた時から「同じ人間ではない」のだ。階級上昇した程度の事で「同じ人間」になれるわけがない。
だからこそこの「階級」間の分断はどんな差別よりも深い埋めがたい亀裂がある。
「男はつらいよ」の第一話を見てみればそれがまざまざと描かれている。愛は国境を越えても階級を越えることは無い。
寅さんはさておき、
近代以降の社会的人間の理想的な在り様や関係の状態とはまさしく、万人が「同一性」と「差異」の両方が尊重されているという状態であることである。
韓国において軍事独裁政権が権勢をふるっていた時、まさに人間が人間でない扱いを受けるということが国家ぐるみで起きていた。
そしてその軍事独裁政権に対し、数十年もまさに命がけで抵抗し戦い続けた人々がいた。
それは民主化運動といわれるものだが、その主体は「民衆」である。
だからこそ民主化運動と連動した「民衆文化運動」が起きたのだが、ここで当然「民衆」とは何なのか、誰なのかという議論が起きることになる。
軍事独裁政権に抵抗する「主体」である「民衆」。だがこの民衆に階級上昇した「二階」のエリート層を含めてもよいものなのかどうか、真剣な議論がそこにはあった。
そしてこの「民衆とは何か」という議論はまさに「差異と同一性」の問題を問うものでもある。
現代にはもはや「民衆」など存在せず、ただ個々バラバラの根無し草の「大衆」だけが漂っていると言える。だが、「差異と同一性」の問題が無くなったわけではない。
だからこそ韓国での民衆の議論を少し見てみたい。
そして東九条マダンが「在日も日本人も同じ民衆」と言う時、「差異と同一性」の問題がどのように扱われているのかを見ることで、
現代の東九条多文化共生エリアにおける「差異と同一性」の問題のありようもくっきりと浮かび上がるだろう。そして平山が冒頭に書いた、民衆とは
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
であるについても考えてみたい。
以下、韓国での「民衆」の議論を見てみる。
尹健次 「現代韓国の思想 一九八〇━一九九〇年代」 岩波書店 p40より引用する。
以下引用━━━
一九八〇年代の「民族民主化運動」は同時に「民衆民主主義」の運動であった。
国家権力と資本家にたいする明示的な対抗勢力がながらく不在であったなかで、八〇年代の運動では「民衆」が変革主体として前面に登場した。
歴史学や社会学などでも「民衆史学」や「民衆社会学」などが論じられ、「民衆」概念の定立がはかられた。
ここでいう民衆は支配体制に抵抗する存在であるが、それは植民地時代の民族独立運動の伝統をひきつぎ、また被抑圧者としての階級連合的、統一戦線的性格をもつ社会集合体であった。
≪略≫
しかし八七年の労働者・学生の大闘争とそれにつづく軍部支配層の「民主化宣言」以降、「民衆」にかわってしだいに「市民」という言葉が使われるようになり、
やがて「市民社会」をめぐる議論が活発化していった。そのことは九十年代に入ると、韓国の民主化問題が市民社会という観点から論じられるようになったことを意味するが…
━━━引用以上
興味深いのは「軍部支配層の「民主化宣言」以降、「民衆」にかわってしだいに「市民」という言葉が使われるように」なったという記述である。
であるならば、韓国における「民衆」とはやはり「下から上」の垂直の「抵抗性」にその本質があり、民主化が達成され「抵抗」する必要が無くなれば「民衆」である必要は無く「市民」となる。
「民衆」が消えたのか、「民衆」が「市民」となったのかは定かではないが、何にせよ韓国において民衆の本質はその「抵抗」性にあるということが理解できる。
また、民主化が達成されるということは「民衆」が毀損されている「人間性」が回復するということであり、「人間性が回復された民衆」はもはや「民衆」ではなくなり「市民」となる、
ということなのかもしれない。
韓国における民衆の議論について整理されている書籍があるので引用する。
滝沢秀樹 「韓国社会の転換 変革期の民衆世界」 あごら叢書 p193~引用する
以下引用━━━
それでは一体、民衆とは何なのか、誰が民衆なのかということについて、韓国でたいへんさかんな議論が行われている。
民衆という言葉自体も、近年、韓国でとくにさかんに使われるようになってきたように思われる。
『民衆(ミンジュン)』という不定期雑誌も出ている。
民衆論の盛行のなかで、いま述べたように、そもそも民衆とは一体何なのか、民衆とは誰なのかという議論も、近年いろんな人によってさかんに行われている。
それは資本主義世界のなかで今日の韓国経済なり韓国社会の占める位置をどう理解するかという問題にかかわる、近年の「韓国資本主義論争」とも深くかかわっている。
私の読んだなかで代表的な人のいくつかの例を紹介しておけば、経済学者の朴玄?氏の場合、これは非常に明快で、労働者と農民と都市貧民が民衆であるという。
都市貧民というふうに表現しているのは、大都市の、とくに都心部スラムや周辺部の貧民街に生きるような人達のことを指す。
ある意味でそれと対照的なのが、社会学者の韓完相氏の場合で、≪略≫この韓完相氏は、民衆というのは経済的な関係で規定できるものではないということを強調して、
主要な統治手段から疎外されている人間が民衆であると規定する。だから、民衆とは階級的な基準からみた被支配階級だけではないという。
これはどういうことを意味するかといえば、韓完相氏は、知識人も民衆であるという。
民衆とともに考え、民衆とともに生きようとする限り、知識人も民衆なのだということをいうわけである。
≪略≫つまり高いところを目指すのではなくて、民衆と共に生きることを目指さなければならないということで『あの低いところにむかって』という本を書いているが、
そこにその指向性がよくあらわれている。
次に文学評論家の白楽晴氏の場合の民衆論をみておこう。
白楽晴氏はソウル大学の英文学科の教授であるが、やはり民主主義を志向する韓国の知識人の一人として、大学を追放された経験のある人である。
≪略≫…民衆文学論ということをずっと主張してきた人であるが、この人が最近、「民族文学と民衆文学」という論文のなかで、民衆という言葉を厳密に使うべきだということを主張している。
白楽晴氏によれば、知識人も民衆だなどというのはおかしい。
知識人がみずから民衆だなどといっていたら、それは知識人の思い上がりになる。知識人は民衆でなどありえない。
そういうところをしっかり自覚してこそ、われわれは民衆指向的な知識人としての活動ができるのだということをいっているが、これは韓完相氏と、その点、非常に対照的なわけである。
≪略≫
これらの人びとの民衆論は、いまみてきたように、それぞれ多少違うわけであるが、
いずれも民衆を主体とした歴史意識というか、民衆を主体とした歴史感覚というものを、経済学、社会学、文学の分野で指向しているといってよい。
━━━引用以上
もちろん韓国における「民衆」の議論は引用したもの以上のものがある。が引用したものを整理すると
・経済学者の朴玄?氏…労働者と農民と都市貧民が民衆
・社会学者の韓完相氏…主要な統治手段から疎外されている人間が民衆。知識人も民衆である。
・文学評論家の白楽晴氏…知識人は民衆でなどありえない。
となる。そして
・東九条マダンの民衆文化運動における民衆…在日も日本人も同じ民衆。
こう並べると明確な違いがはっきりとわかる。さらに
尹健次 「現代韓国の思想 一九八〇━一九九〇年代」 岩波書店 p45より引用する。
以下引用━━━
一九八〇年代の民衆論は大きくいって、階級論的立場からのものと疎外論的立場からの二つに分けて考えることができる。
マルクス主義の立場にたつ民衆論は、民衆概念を資本主義の発展にともなう階級分化と関連させ、主として階級同盟の観点から考えるものである。
それにたいして疎外論的立場からのものは、民衆を政治的・経済的・文化支配の手段から疎外されている多様な集団とみるもので、マルクス主義の階級論的見方を否定するものである。
具体的な論者としては、前者の場合は朴玄?、徐寛模などのマルクス主義者であり、後者は七〇年代半ばから、のちに自ら「民衆社会学」と名づける民衆論を多数発表した韓完相である。
≪略≫
マルクス主義に立脚する朴玄?は、民衆を主として経済的搾取関係に規定されるものとして把握しようとした。
それは資本主義の展開過程においてどの階級が構造的に低い位置に立たされるかを明らかにし、民衆の実体を究明することが先決であるとする考え方であった。
≪略≫
一方、韓完相はこうしたマルクス主義的理解に違和感を示して、民衆を政治的・経済的・文化的支配の手段から疎外されたものと定義づけながら、
民衆の存在様式を「即自的民衆」と「対自的民衆」に分けて考えた。韓完相は、民衆概念を社会学的観点から考察したのであるが、
その民衆は政治支配の手段から疎外されると同時に、生産・分配および消費全般にわたる行為からも少なからず疎外され、
そらに他の人たちから尊敬されるほどの文化手段ももたない集団であると規定した。
そうした社会の不平等構造は人類史に普遍的なものであり、奴隷社会以来の歴史的社会に貫徹するものでもあった。
しかしまた韓完相は、それだけで民衆の性格が全体的に把握されるわけではないとして、即自的民衆と対自的民衆という民衆のふたつの顔を理解しなければならないと主張した。
即自的民衆とは自分が民衆であるという自意識をもっていない「寝ている民衆」をさし、対自的民衆というのは、民衆という自意識に目覚めている民衆を意味するという。
しかもこのようにみるとき、知識人と民衆の関係において、即自的民衆は知識人による意識化作業の対象になると規定される。
━━━引用以上
このような民衆をめぐる議論を見る時、やはり平山はそこに「差異と同一性」をめぐる問題を見る。
階級上昇した学生やエリート層と労働者階級との間には当然「差異」がある。
また「階級」は構造上、上の階級が下の階級から収奪するようになっている。
そのような構造的差別や構造的収奪があるなかで、階級間をこえる「同一性」を見出すための議論がなされているように思える。
だが根本的に考えなければならないことは、そもそも軍事独裁政権と戦うエリート層たちが何故「国民」ではなく「民衆」を自称しなければならなかたのかということである。
エリート層は何故「民衆」へと「変身」しなければならなかったのか。
まず「エリート層」という体制側、構造的に収奪する側の者が、「民衆」という構造的に収奪される側に「変身」することそのものが、軍事独裁政権への抵抗となる側面があったのではないだろうか。
つまりエリート層は①「民衆」に「変身」することで「国民」という「同一性」を振りほどき独裁政権との「差異化」を果たす。
そしてもうひとつの理由は、②「民衆」に「変身」することで、
平山が言うところの「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」として抵抗運動をしたのではないか。
つまり「国民」ではない、「近代人」ではない、ありのままの人間、生命としての人間で在らなければ独裁政権と闘争できなかったのではないか。
何故なら「民衆」とは剥き出しの現実そのものを生きる者であり、生命そのもの、暴力そのもの、死そのものを生きる者たちだからである。このことについては連載次回で詳細を検討する。
当時の民主化運動に身を投じたエリート層や学生はただ単に「民衆」を自称しただけではない。
彼らは積極的に農業の現場、工場の現場へ降りていき、そして夜学という夜間学校の教師をし、社会的底辺層の労働者と関わることを通じてまた、
「投獄」されることを通じて「民衆」へと「変身」したのだ。その過程は真鍋祐子氏の『烈士の誕生 韓国の民衆文化運動における恨の力学』に詳しい。
だがそれは東九条マダンにおける「民衆文化運動」のように「在日も日本人も同じ民衆」などとい甘っちょろいものではない。
当然だが、エリート層の人間が民衆を「自称」しただけで民衆になれたり、民衆としての意識を獲得することなどできるべくもない。
朝鮮文化のコスプレイベントと命がけの「変身」は全く異なるものである。だが、あえて、尹健次氏の議論に当てはめるならば東九条マダンにおける「民衆」は疎外論であり、
「民衆を政治的・経済的・文化支配の手段から疎外されている多様な集団」として「在日も日本人も同じ民衆」だというくくり方をしているのかもしれない。
確かに東九条マダンに参加している人たちは少なくとも「支配者層」ではない。
だが平山が本連載でさんざん指摘し続けてきた通り、東九条マダンにおける「民衆」には階級の問題は含まれていない、むしろ隠蔽されている。
むしろ、階級の問題が隠蔽されているからこそ東九条地域「一階」の住人は構造的に参加できない。つまり東九条マダンは「疎外」する側になっている。
そして東九条マダンにおける「民衆を政治的・経済的・文化支配の手段から疎外されている多様な集団」に「一階」の人間は含まれていないということになる。
つまり、「在日も日本人も同じ民衆」を疎外論としての民衆だと解釈したとしても、やはり東九条マダンにおける「民衆」は「二階」のエリート層限定の「自称民衆」であるという結論にならざるを得ない。
つまり、上記の議論に照らし合わせて東九条マダンにおける民衆を定義しなおすならそれは
「政治的・経済的・文化支配の手段から疎外されている「二階」の集団」
という事になる。
これを生活のことばで書き直すと
「生きずらい二階の集団」
となる。
この連載≪42≫でも書いたが、東九条多文化共生エリアが現在
「生きづらい「二階」の日本人のたまり場」
になったのは、東九条マダンがそのような場を形成し、「生きずらい二階の人間」を吸い寄せていたからであることもひとつの原因であることが理解できるだろう。
東九条マダンにおける「民衆文化運動」の「民衆」とは即ち、「生きずらい二階の集団」のことである。
韓国の軍事独裁政権と命がけの戦いをする人々と、日本で平和を享受しながらも生きずらい二階の集団を同じ「民衆」だというのは流石に無理があるのではなかろうか。
韓国における「民衆」には「二階」の世界の者が「一階」の世界の「民衆」に「変身」するという「差異化」や「異化」作用が強く働いている。
そしてその「変身」そのものが体制への強烈な闘争そのものになっている。
だが、東九条マダンにおける「民衆」はその逆で、在日と日本人の「差異」を消して、「同じ民衆」という「同一化」の作用をもたらす。
その「同一化」の作用こそが「多文化共生のまつり」に見えたのだ。
そして厄介なのは、東九条多文化共生エリアにおいては、この「差異を消滅させる同一性」が「多文化共生」だと認識している者たちが多くいるということである。
浜辺ふう=山崎なしがその代表であることは言うまでもない。
そして「生きづらい「二階」の日本人」たちが多文化共生の名のもとに「差異を消滅させる同一性」を推し進めるとき、東九条地域は植民地化され、
代々住んでいた地元の住人は居場所を失い、在日は排除される。東九条の多文化共生に「適応」したとて、マイノリティはマジョリティの「ケア要員」をさせられるのが関の山だろう。
何故浜辺ふう=山崎なしのような連中が、在日の歴史を無視し、東九条地域の歴史を捏造し、民族学級へ不当要求を繰り返し、断れたら「傷ついた」と被害妄想を爆発させ、
それを理由に在日韓国朝鮮人を著しく侮辱する表現を繰り返しながらもその舞台で朝鮮の楽器をちょろちょろ演奏するのかがこれで理解できるだろう。
浜辺ふう=山崎なしには「差異を解消する同一性」が駆動しており、それが「多文化共生」だとこころの底から思い違いしているからである。
「在日も日本人もおなじ人間なのにーーー」「属性なんかかんけいないんだーーーー」というお花畑多文化共生がまさに東九条多文化共生エリアに花開いたのだ。
この「閉じたユートピア」志向はまさにカルトである。
いい歳してこんな思い違いをし続ける浜辺ふうと山崎なしにその責任の全てがあるのは当然なのだが、
その原因をたどっていけばこの東九条マダンによる民衆文化運動のコスプレに行きつくのである。
浜辺ふうは東九条マダンに多大な影響を受けたわけだから、当然この「差異を消滅させる同一性」を内面化しているわけである。
「差異を消滅させる同一性」にとって、在日の歴史や東九条の歴史感覚といった「差異化作用」をもたらす「他者」は邪魔でしかない。
だから山崎なしが「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」
と得意げに言い放ったのは「差異を消滅させる同一性」が正義だと思い違いしているからである。他者性を消去することが多文化共生だと本気で思っているからである。
多数者であるマジョリティ側が「差異を消滅させる同一性」を推し進めれば少数者であるマイノリティはその「差異性」を維持できなくなりマジョリティに同一化せざるをえないのは当然である。
これが暴力でなくて一体何なのか。
そしてその結果起きることは、平山がこれまでさんざん指摘してきたとおり、「他者性の消去」である。
現在東九条多文化共生エリアで起きている「他者消去」「歴史消去」もたどっていけば東九条マダンにおける「差異を消滅させる同一性」という「民衆解釈」に行きつくのである。
「同一性」とは「差異」を消滅させるためにあるのではない。「同一性」とはその基盤の上で差異を発揮するためにある。
もちろん「差異性」とはその「同一性」の範囲でしか認められない。その「同一性」をはみ出た「差異」は穢れ、犯罪として境界の外へ排除されるか、あるいは聖化されて異界へと送られる。
だが「差異を消滅させる同一性」なんてことをすれば社会そのもの、世界そのものが消滅するだろう。差異を消滅させれば同一性も消滅するのだから。
おれがこの連載で浜辺ふう=山崎なしをしつこくしつこくしつこくしつこくしつこくしつこくしつこく批判し続けているのは、こいつらのやっていることは社会や民族そのものの消滅をもたらすからである。
それが例え東九条という小さな地域であったとしても、在日韓国朝鮮人という仮初の民族であってもそんなことは許していいことでは無い。
…と、東九条が死に、在日韓国朝鮮人が滅びてからそう言ってももう遅いのだが。
思想は恐ろしい。そして思想はおもしろい。思想は半ば意識的であり半ば無意識的である。それを自覚しない者にとってはその思想は本人が気が付かないままその人間を乗っ取って突き動かす。
だがその思想に気が付き、思想に動かされていることを自覚する時、その思想を制御し、反省し、変えることができる。
思想を自覚するためには歴史を辿るしかない。
そして歴史とは死者そのものである。思想を辿っていけば必ず死者に出会う。だから未来をつくるのは過去なのだ。未来を変えるのは死者たちなのだ。
だが東九条マダンはその始まりの時点で死者を歪めた。韓国から輸入した「民衆文化運動」でありながら、「在日も日本人も同じ民衆」という誤った民衆解釈をし、
東九条地域に「差異を消滅させる同一性」の思想を植え付け「多文化共生」として花開き東九条地域を殺し、在日韓国朝鮮人を消滅させた。
東九条マダンは在日韓国朝鮮人を消滅させた。
「差異を消滅させる同一性」の思想によって。
そのことはこの平山剛志がはっきり書いておく。
そして今、「差異を消滅させる同一性」の思想は人間そのものを消滅させようとしている。
だからこそおれは、民衆とは何なのかを真剣に辿っている。
何故なら、民衆とは死者そのものだからである。
民衆とは死を直接生きるものたちだからである。
民衆とは人間を直接生きる者たちだからである。
連載次回は
「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない人々。」
について考えてみたい。
━━━━━
今回の連載において書いている「差異性と同一性」および「変身」については荻野昌弘氏の「資本主義と他者」でなされている議論に影響を受けて書いています。
「資本主義と他者」においては貨幣経済や資本主義が成立する過程で共同体が危機に見舞われ、
その危機を解決するその過程や在り方や諸所の思想の議論においてこの「差異性と同一性」および「変身」という概念が使われていますので、
このことばだけを取り出して平山の議論に当てはめるのは正確ではないのですが、
本連載において他者と社会の関係を考える上で、渡辺哲夫氏の「死と狂気」とならんで大きな影響を受けたのでその事を記しておきます。
参考文献
荻野昌弘 「資本主義と他者」 関西学院大学出版会
尹健次 「現代韓国の思想 一九八〇━一九九〇年代」 岩波書店
滝沢秀樹 「韓国社会の転換 変革期の民衆世界」 あごら叢書
映画 「男はつらいよ」第一話
真鍋祐子 「烈士の誕生 韓国の民衆運動における恨の力学」 平川出版社
2026年7月4日