「天プラは、人間の五感のすべてを駆使するきわめて高等な技術だ、眼も大事だが、耳が大事だ。
タネのまわりを包む泡が、だんだん小さくなるにしたがって、泡のはじける音も高くなっていく…
腕のいい職人は、その音の変化で丁度よい揚がり頃を判断しているんだ、無意識のうちにな!!」
━━━━「美味しんぼ」 第一巻 第六話 油の音 海原雄山のセリフより引用
東九条マダンのフィナーレ。
朝鮮の楽器と日本の和太鼓が共演し、最後、演者と観客が一緒になって、激しいリズムの演奏とともに会場中央のマダンパンという円の周囲を歩いて回っていく。
会場が一体となる、まさに多文化共生のまつりの象徴的なシーンだ。
まつりの最後の高揚感。会場の熱気と激しいリズムの音楽とが相まって、まさに「まつりの中」の時間、祝祭の時間がそこにある。
平山も何年か「みんな」と一緒にくるくる歩いたことがある。
たしかにきもちい。だが、なにかがおかしい。
何かが胸につっかえる、腑に落ちない。
頭はきもちいい、
だが、
身体は、きもちわるい。
違和感が、つぶつぶつぶつぶ、身体の細胞から吹き出てくる。
鳴っているのは激しいリズムの音楽。だけどみんな、ゆっくり歩きながら両腕を右左にゆっくり振っているだけの動き。
演奏と、「みんな」の身体の動きが全く合ってない。
音楽と身体が全く合ってない。なのにきもちよさそう。
きもちわるい。
音楽が悪いわけじゃない。その場でそのリズムに合わせて踊ればきもちいだろうに、誰も踊っていない。「みんな」のその動きが壊滅的にあのお音楽に合っていない。
だが「みんな」が同じ動きをするなら、あのへんな盆踊りのまがい物のような動きになるのだろう。まさにあれが、「差異を生滅させる同一性」の光景そのものである。
達者に踊れなくてもいい。「みんな」と同じ動きをするのではなく、各々が、そのリズムに合わせて個々に気持ちよく踊ればいいじゃないか。
だけど、「みんなのまつり」東九条マダンでそれはできない。たとえ音と身体が合ってなくても、それが気持ち悪くても、「みんな」が「みんな」であることがたいせつなのだから。
音と身体が不一致したままの一体感。
だけど、これこそが東九条マダンなのだ。
その気持ち悪さに誰も気が付かない、身体が気持ち悪いのにみんな気持ちよさそうにしている。
己のなかの「違和感」を「みんな」であることの気持ちよさが上書きしていく。
「現実」の身体を「みんな」という「虚構」が気持ちよく塗りつぶしていく。
これこそが東九条マダンだ
東九条マダンで鳴る音楽は身体が踊るための音楽ではない。東九条マダンの音楽は、多文化共生のBGMなのだ。
東九条マダンは「東九条で、韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い一つになって、みんなのまつりを実現したい(東九条マダンホームページより引用)」
という想いを実現するために「在日も日本人も同じ民衆」という民衆概念の不当な操作をすることで始まった。
それは在日も日本人もその主体性を「宙吊り」にした「みんな」という「虚構」をつくることでひとつのまつりをつくることに成功した。
そしてそれは現在「多文化共生のまつり」と呼ばれている。
「在日と日本人とが朝鮮文化のまつりをいっしょにする」ということ。
そのことの意味や意義がそもそも「民衆概念の不当な操作」からはじまったというのが東九条マダンの「虚構」の起源である。
その嘘、矛盾は、身体と音の不一致として現れるが、誰もその不一致を認識していないという恐ろしい「現実」がそこにある。
この連載で何度も書いているが、東九条マダン周辺で明らかに異常なことが起きている。
だけど恐ろしい問題は、それに気が付いているのは平山だけで、他のだれもそのことに気が付かないということだ。
何故だれも気が付かないのかというと、たとえ違和感を感じても「みんな≒多文化共生」が違和感を上書きしてかき消すからだ。
東九条多文化共生エリアで起きているのは、「みんな」という虚構、「多文化共生」という虚構が現実や身体を上書きして塗りつぶしているということである。
つまり、東九条多文化共生エリアでは、美味しい天プラは揚がらない、ということだ。
やっぱり、平山が尊敬し敬愛する海原雄山はええことを言う。
「天プラは、人間の五感のすべてを駆使するきわめて高等な技術だ、眼も大事だが、耳が大事だ。」
そう、「眼も大事だが、耳が大事だ。」なぜなら、
「虚構」は「視覚」によって作られる。
「現実」は「聴覚」によって現れる。
からだ。
そもそも東九条マダンは「書き言葉」によって始まっていることを平山はこの連載で書いた。
「書き言葉」とは当然「文字」による文化であり、それは当然「視覚」によって思考され構築される。
だから東九条マダンが「在日も日本人も同じ民衆だからいっしょにひとつのまつりをする」という
「民衆概念の操作」による「虚構の構築」が可能になったのも「書き言葉」の高度な抽象思考のなせる技である。
「多文化共生」もまた「書き言葉」の「文字」によって構築されたものであり、それは当然「視覚」によって認識され構成される。
つまり「多文化共生のまつり東九条マダン」は「視覚」によってつくられ、観客も「視覚」によって楽しんでいる。
そこで演奏される「音楽」すら「視覚」的感性によって認識されている。
だからこそ、フィナーレの「音楽と身体が全く合ってない」あの状況が生まれ、かつそれを認識できないどころかあの状態をきもちよく感じてしまう。
それはあの音楽のリズムを「聞いて」身体で「感じている」のではなく、あの音楽を「多文化共生のBGM」として認識しているからである。
つまり「書き言葉=視覚」的にあの音楽を認識するからこそ、リズムと身体が合ってなくても何の違和感も感じない。
東九条マダンで鳴っている音楽は音楽として認識されず「多文化共生という意味や文脈」としてしか認識されない。それはスーパーで鳴っているBGMと同じなのだ。
スーパーで鳴っているBGM「買い物」という意味や文脈を補強するだけである。あのBGMに合わせて踊る者はいないだろう。
東九条マダンで演奏される音楽は多文化共生のBGMであるがゆえにそれで踊る者はいないし、「視覚的」に「理解」されて終わる。
たしかに、平山が生まれ育った東九条、その一角の宇賀辺町に朝鮮の文化や音楽なんてものは無かった。
だけど、音と身体が一致していないということなどありえないことだった。
オッサンの怒鳴り声、たまに遠くから聞こえるピストルの発砲音、それに続くパトカーのサイレン、吠え掛かる野良犬、
ヤッホー、子供の笑い声、リコーダーの音、朝鮮のババアのわらい声、小銭が落ちる音、ガチャガチャが回る音、
叫び声、鳴き声、ファミコンのカセットを抜く音、車の音、缶がつぶれる音、ビンが砕け散る音、ボールが弾む音…。
街に響くその音と身体とが一致していないなんてことは絶対に無かった。
その音は全て、東九条の現実そのものだった。
その声は全て、東九条の現実そのものだった。
その叫びも沈黙も、東九条の現実そのものだった。
だけどもはや、だれもその音を、声を、叫びを、聞く者はいない。
その沈黙に、耳をすます者はいない。
その音を知的に「視て」「理解」する者はいても、
その音を聞いて世界を顕す者はいない。
東九条マダンはたしかに楽しいまつりだ。だけどそこには痛みが無い、悲しみがない、怒りが無い、無念がない。
何故ならその声や音を「聞く者」がいないから。痛みも、悲しみも、怒りも、無念も、見えないものだ。それは「聞こえてくる」ものだ。そしてその音や声を身体で「感じる」ものだ。
音や声を聞かない聞こえない東九条マダンに、感情などあるはずがない。
ただただ、見てるだけ。読んでるだけ。理解はするけど聞いてはいない。
東九条マダンの「宙」性とは、主体を「宙吊り」にしているということを、この「聞かない」という構えによって実現している。
「聞かない」ことによって「虚構」はつくられるからである。
では東九条マダンは何を聞かなかったのだろうか?逆に言えばその「虚構」を構成することで、何を聞くことを避けたのだろうか?
それは、在日の本音、在日の叫び、在日の沈黙だろう。
東九条マダンは在日の声を「聞かない」ことで構築される「みんな」という「虚構」である。
例えば「ひとつになって育てよう 民族の文化を! こころを!」というスローガンのもと、1983年に始まった生野民族文化祭は非常にその意図や意志が明確である。
在日が民族性や主体性を回復するための祭りであり、それは在日による在日のための祭りである。であるがゆえに日本人はそこに参加できない。単純明快。
一方、東九条マダンの「東九条で、韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い一つになって、みんなのまつりを実現したい(東九条マダンホームページより引用)」というのは
意図がいまひとつ理解できない。「みんな」のまつりをしたいなら「盆踊り」でいいじゃないか。
何故それが「マダン」なのか、何故朝鮮文化のまつりを「みんな」でするのか。その動機や意図がよくわからない。
そしてそれを実現するには在日がその民族性を「漂白」し、在日としての主体を「宙吊り」にしなければ成立しない。
「在日も日本人も同じ民衆」という歴史や階級構造を無視して民衆概念を歪めた「まつり」は初めっから無理があるし苦しい。
そもそも在日と日本人が「朝鮮文化」のまつりを一緒にやる、というのは非常に繊細な問題を孕んでいる。
ただでさえ文化収奪になりうるような行為であるし、植民地支配の歴史があり、その加害者側が収奪した側の文化の表現をすることの意味は問われなければならないだろう。
だが、東九条マダンにおいてはそんな「めんどくさい話」は一切問われない。なぜなら「みんな」のまつりだから。
東九条マダンに参加する者は、在日も日本人も同じ「みんな」だから。歴史修正主義より過激な歴史消去である。まさに「差異を消去する同一性」の真骨頂である。
日本人はそれでいいだろう。何も失うものは無いし葛藤も無い。だけど、在日はどうだろう。
在日がこの「みんな」になるにおいて、その本音、その叫びその沈黙は封印しなければならないだろう。民族性や歴史を「漂白」しなければ「みんな」を「構築」することはできないのだから。
呆れたことに、東九条多文化共生エリアには、在日と本音で関わり合えていると思い込んでいる日本人がいる。
東九条地域で多文化共生が実現していると思い込んでいる奴がいる。おめでたい。まことにおめでたい。もちろん在日が嘘をついているとか、偽っているとかではない。
だけど本音は言ってないよ、と。それは隠しているとかではなく、本音を言えば「みんな」という「虚構」が壊れるからである。
本音を言えば「多文化共生」という「虚構」が壊れるからである。だから東九条多文化共生エリアにおいて在日が日本人に本音を打ち明けることなどない。
そもそも、在日に限らず、マイノリティがマジョリティに本音を話すという危険を冒すことなどほぼ、ありえないことである。それがわからない連中が多文化共生だなんだと言っているのだからお花畑にもほどがある。
以前にも連載において書いたが、ある東九条マダンのメンバーに言われたことば、
「平山君が言っていることはよくわかるし、平山君が違和感をことばにしてくれることはとてもありがたい。だけど、平山君が言ってる東九条のことを東九条マダンで議論したら東九条マダンは空中分解する。」というのは、
本音を言えばこの「虚構」が壊れるということを指しているのである。
先に書いた、
「聞かない」ことによって「虚構」はつくられる
とはそういうことである。
だが、まずもって、東九条マダンをお「構築」するにおいて、在日自身が、自分自身の声を「聞かない」ことにしているのである。自分の声を聞いてしまえば葛藤に苛まれるからである。
そこまでしてやる「まつり」に何の意味があるのかおれにはよくわからないが、そうしたい在日はそれをやったらええと思う。
だけど、問題は、東九条マダンが「聞かなかった」ことで構築した「虚構」が、現実を壊し始めているということである。
東九条マダン自体に直接的な加害性は無い。だけど、その周辺で異常なことが起き続けてる。そしてその「聞かない」という構えは東九条多文化共生エリアに浸透している。
平山からの再三の抗議を全て無視し続けた、京都市 地域・多文化交流 ネットワークサロン施設長の前川修、平山からの抗議に一切答えず無視し続ける浜辺ふう。
浜辺ふう=山崎なしという「虚構」は在日の、東九条の「歴史=生活」を実際に破壊している。民族学級への不当要求を主張し続けている。「虚構」が「現実」を破壊している。
処処抗議している平山は「暴力を振るった」という「デマ=虚構」を流され「現実」を歪められている。
これまでも「話し合い」と称して何度か多文化共生エリアの者たちと話し合いもしたが、こちらの話なんて「聞いていない」。「傾聴」するけど「聞いていない」。「見て」はいるけど「聞いていない」。
まあ、話し合いとやらもしないよりはマシなんだろうけど、おれはもう、多文化共生エリアの者たちと話をしても無駄だと思っている。
自分の本音を自分自身で「聞かない」ことにしている奴は他人の話も「聞けない」のよ。
「みんな=多文化共生」という「虚構」を生きている人たち、「みんな=多文化共生」という「虚構」を必死で守ろうとしている人たちに「現実」の話なんかしても「理解」はしても「聞く」ことはない。>
そして東九条多文化共生エリアはこの「差異を消去する同一性」という東九条マダン方式によって構築された「多文化共生」が虚構されている。
虚構が新たな虚構を虚構していく。
東九条地域「一階」の住人は東九条マダンに参加もしないしそもそも興味がない。
かんたんな話だ、虚構に参加する必要がないからだ。
この東九条という現実を、呪いのような運命を生き切ってきた者たちは、虚構を虚構だと見抜けないほど愚かではない。
東九条地域住人は「みんな」なんていう「虚構」に飛びついたりしない。
東九条マダンは民衆を排除した、とこの連載で書いてきた。
本当はちがう。
東九条マダンは、民衆から排除されていたのだ。
大地の音を、人間の声を、生活の音を、身体の声を「聞かない」ことによって、
すでに「現実」から排除されていたのだ。
東九条マダンはこれからの社会にますます必要な「まつり」となるであろう。「現実」から排除され「虚構」を生きる人々が安心して「みんな」になれる場所だからだ。
だが、それは在日が「聞かない」ことによって「虚構」されている「みんな」であることを忘れてはならない。
そして「聞かない」ことにすればするほど、その身体は悲鳴をあげることになる。
おれにはその身体の悲鳴が「聞こえる」。
東九条マダンのフィナーレでおれが感じた違和感、気持ち悪さは確実に、「聞こえなかったこと」にされた身体の悲鳴だった。
虚構虚構、というけれど、そもそも「在日」という存在自体が極めて政治的につくられた「虚構」だった。在日は、政治的主体としては「人間でもなければ国民でもない」という「壊れた虚構」。
東九条マダンはその「壊れた虚構」を「みんな」という少しマシな「虚構」に変えただけである。それは「民衆概念」の不当な操作によって実現したのだが、それによって本当の「民衆」を排除することになった。
いや、「民衆」から排除されることになった。
「在日」という虚構は近代の宿痾が生んだ虚構でありながら、「人間でもなければ国民でもない」という非近代を生きさせられた。
だが、であるがゆえに「人間であることから排除されている人々、であるがゆえに人間そのものを生きざるをえない」という「現実」を直接生きた人間たちだった。
その人間こそを「民衆」というはずなのだ。その「現実を直接生きた人間」こそが在日の「身体」であったはずだ。その、狂気、暴力、死こそが在日の「身体」であったはずだ。
それを生きて死んだ「死者たち」こそが在日の「身体」であったはずだ。
東九条マダンが「聞こえなかった」ことにした声とはその「死者たち」の声、その「身体」の声だ。
あの東九条マダンのフィナーレ、音と身体が壊滅的に合わないあの場、あれは死者殺しの場だ。
多文化共生という、死者殺し、身体殺しの場だ。
自分の声を聞くという事、身体の声を聞くという事、死者たちの声を聞くという事、それは
身体と音が一致しているということである。身体と声が一致しているということである。
東九条マダンにそれはない。
身体と声を一致させるには、「虚構」を捨てなければならないからである。
虚構のまつり東九条マダンにそれはできない。
そしてこれ以上、平山が虚構に対してことばを、声を、重ねることは無い。
東九条マダンに参加するということは平山もまたこの「虚構」を生きなければならないということである。自ら身体と音をずらして不一致させなければならないということである。
五年ほどそれをしてみたが、やはりそんなこと平山にできるわけがなかった。平山もかなり無理をした。だが、その不自然な不一致を元に戻すその力がこの連載を書かせている。
その身体の悲鳴、絶叫こそは死者たちの叫びだからだ。東九条マダンに殺された死者たちの叫び、身体の叫びだ。
そしてそれは、東九条マダンによって歪められた歴史=死者たちの叫びでもある。それは平山が実際に東九条マダンに参加し、東九条多文化共生エリアと関わらなければ聞くことができなかった叫びだ。
在日の痛ましさとは、虚構の主体を生きざるをえなかった、声と身体が一致しない人生を政治的に強制されたことにある。
それは数世代を経て、平山の世代でようやく、声と身体とが、音と身体とが一致する生き方ができるようになったのだ。
無念の人生を生きて死んだ死者たちには感謝と敬意しかない。
在日の平山にとって、東九条マダンは悲しいまつりである。もう、虚構を生きる必要は無いのに、もう、その声と身体を一致させて生きてもいいのに、まだなお虚構を生きようとする在日のかなしいまつり。
それが、みんなのまつり東九条マダンである。
在日はその時代その時代、常に政治や国際状況に直接影響を受けながら生きてきた。「人間であるが国民ではない」という「異物」でありながら「同化」を強いられてきた。
そして現在は「多文化共生」という「同化」を強いられている。東九条マダンに参加するような在日は日本の社会に認められるが、それに異をとなえる「異物」の平山は「暴力」のレッテルを張られて排除である。
平山自身は意図して「異化」しようとしているわけでもないし、過剰に過小に同化しようとも思わない。ただ、声と身体とが一致して生きていければいいなと思うだけである。
だが「声と身体」との一致を妨げるのが「虚構」である。「虚構」は必ず声と身体との不一致を起こす。
東九条多文化共生エリアに関わって、東九条マダンに関わって非常に驚き恐怖すら感じたのが、「みんな」という虚構のアイデンティティを内面化した日本人がいるということである。
浜辺ふうがその筆頭だが、その周辺もそう。
東九条マダンは、それがいいか悪いか別として、「虚構」のまつりである。その「虚構」を「現実」だと認識して内面化するなら病的にならざるをえない。
それは仮面ライダーのコスプレをする人が自分は本物の仮面ライダーだと信じてショッカーと戦いだすのと同じだからだ。ショッカーはこの現実のどこにもいないのに。
「日本人が民族学級に入れないのはおかしい」と訴えるのは、ショッカーと戦っているのと同じなんよ。病的なの。そしてそれを支持する連中がいる。
マジョリティが「みんな」という「差異を消滅させる同一性」を内面化するとき、それはマイノリティへの「同化」の強要にしかならない。
これが東九条多文化共生エリアで起きている恐ろしい「現実」である。
当たり前だが、マジョリティとマイノリティは「違う」。大前提として「みんな」にはなれない。
だけど、東九条マダンという「虚構」の「まつり」を「設定」することでその日、一日だけは「みんな」になってたのしみましょう!というならわかる。であるがゆえの「朝鮮文化のコスプレイベント」だ。
だけどその「虚構」の「みんな」を「現実」の生活に持ち込めば、数が少ないマイノリティが収奪され、抑圧され、同化を強いられるだけにしかならない。それは明確な植民地化でしかない。
東九条マダンは「虚構」である。東九条マダンの「みんな」は、「みんな」というコスプレをしているだけ。だからこそ安全性が保たれている。
だけどそれを「多文化共生のまつり」と言った瞬間、その「みんな」は内面化されるべき「規範」となる。
東九条マダンの失敗はやはり、「多文化共生のまつり」と言われ始めた時にはっきりと否定しなかったこと、そしていつしか「多文化共生のまつり」を自称し始めたこと
、これによってその「虚構=みんな」を「虚構」だと認識できずそれを内面化し始めた日本人が現れ始めたということ。
虚構が現実を侵食し、虚構が生活を破壊し、虚構が歴史をぬりつぶしはじめる。
東九条マダンとは、「みんな」という病いである。
虚構の「みんな」が、現実の人間、生活、歴史を喰い始めた。恐ろしい、病いである。
そして現在、東九条多文化共生エリアでは、多文化共生という「虚構」が東九条という大地を、現実を黒く塗りつぶしている。
おれが浜辺ふうや山崎なしその周辺の者たちに感じた恐怖とは、虚構を現実だと信じ込んでしまっているその狂気に恐怖を感じたのである。はっきり言って、狂っている。山崎なしの
「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」
という発言。仮面ライダーのコスプレをしてる奴が本気で「ショッカーを倒して世界を平和にする」と言ってるのと同じで、そんな奴が目の前に現れたらふつうに怖いやろ。
しかも、在日である平山は「ショッカー」として認識されているわけだから。それがいくら「虚構」だと説明しても、おまえらは仮面ライダーじゃない、と説明しても一切「聞かない」のだから。狂気やんかそれは。
東九条マダンという「虚構」が、東九条地域に「みんな」という病いを生み出した。その「みんな」という病いはそれを内面化した浜辺ふう=山崎なしという狂気に至った。その狂気は現在、在日を攻撃するに至っている。
狂気は人を熱狂させる。まさにこれは「多文化狂生」である。
東九条マダンが「虚構」であること自体は問題では無い。「虚構」だからできること、たのしめること、愛せることもある。
だけど問題は、その「虚構」が在日が自らの声を「聞かなかった」ことにすることによって構築されているものであるということである。
在日が、その声と身体を「不一致」させることによってつくった「虚構」は、病的にならざるをえないし、その病いを内面化すれば当然それは狂気へと至る。その狂気は暴力に至り、死に至る。
東九条マダンという身体は、悲鳴をあげている。
その身体の悲鳴に耳をすます日本人がどれだけいるのか。
多文化共生のまつり!、みんなのまつり!と気持ちよくなってお終いなんじゃないのか。
多文化共生という「構築」された光景を「視るな」。
眼を閉じろ、耳をすませ。
そこで現実に起きている音を聞け。
身体の軋みを聞け、身体の叫びを聞け。
沈黙の身体に耳をすませ。>
そこにいるのはけっして「みんな」なんかじゃない。
悲しみを、怒りを、痛みを、無念を宿した身体がそこにある。
身体の音を聞け。
それがたとえ「虚構」だったとしても、
その音を「聞く」者がそこに居る限り
音と身体は一致し、調和しはじめる。
在日が己を漂白して「みんな」と言わざるをえなかったかなしいまつり東九条マダン。
おれにとっては、その「みんな」は在日の無念の呻き声に聞こえる。
もう誰も虚構を生きなくてもいいじゃないか。
虚構を捨てるのはかんたんだ。
視ることを一旦やめて、「聞く」だけだ。
音に耳をすますなら、声と身体とは調和しはじめる。
声と身体が調和した現実があれば虚構など必要ない。
「みんな」なんていうチャンソリはいらん。
ゆっくりと、手を、宙に触れて
おれは、今、
東九条マダン後の
世界の音を
聞いている。
2026年8月2日