虚構を形成できないときに、人間も社会も狂う。
だが、虚構を虚構だと認識出来ない時に、人間も社会も病む。
東九条マダンも虚構、多文化共生も虚構、そして「わたし」も虚構。
だがそれは人間にとって、社会にとって必要な虚構である。
問題は、これが虚構であることを認識できず、虚構を現実だと思い違いしてしまう時である。
虚構を虚構だと認識出来ない時、その虚構が現実を歴史を歪め、現実を破壊し始める。
仮面ライダーの「コスプレ=虚構」を楽しんでいる人が、その「虚構=コスプレ」を現実だと誤認識し、
「おれは悪の組織ショッカーと戦う正義の味方だ!」と現実で振る舞い始めればそれは明確に病気だろう。
やがて社会の中の特定の属性の誰かが「ショッカー」に見え、「ショッカー」を攻撃し始める。そこまでいけばもはや狂気である。
だが本人は自分が仮面ライダーであり、世界を守るためにやっていると本気で思っているのだから、第三者からの事実の指摘や説得は通じることは無いし、
自身を否定するような言説は全て「ショッカー」からの攻撃に見えるのだろう。
荒唐無稽な例え話に思えるかもしれないが、これが現在東九条多文化共生エリアで起きていることである。
平山はこの連載において、東九条マダンが、在日も日本人も一緒に朝鮮文化のまつりをするために、「みんな」という「虚構」をつくったということを示した。
東九条マダンに参加する者は、在日韓国人/在日朝鮮人/日本人という「/差異/」を消してこの「みんな」になる。
それは、東九条マダンという年に一度の「まつり」をするための「虚構」である。
だが、現実の生活においては在日韓国人/在日朝鮮人/日本人という「差異」がある。そしてその「差異」を差別ではなく、お互いの差異を尊重し、
この社会で共に生活していくことが本来の多文化共生である。
差異を消滅させた「みんな」という「虚構」は年に一度の東九条マダンという「まつり=虚構の場」だからこそ許される「虚構」である。
だが、この「みんな」という「虚構」を「多文化共生」だと勘違いした者たちがいた。
そして愚かなことに、東九条マダン自身が「多文化共生」を自称し始めた。それに悪影響を受けた者が「みんな」になることが多文化共生だと勘違いしだした。
「差異」を消すことが多文化共生だと勘違いしだした。だがそれは「同化」でしかない。
東九条マダンの「みんな」を現実の生活に持ち込めば、それはマジョリティによる、マイノリティへの「同化」の強要である。
「多文化共生」は「まつり」ではなく「現実」の「生活」の話である。故に、東九条マダンが多文化共生を自称するということは、この「虚構」を「現実」と混ぜてしまう事になる。
そしてこの「虚構」と「現実」の混濁が浜辺ふうという多文化共生系レイシストを生んだ。
東九条マダンにおける「みんな」というのは「虚構」である。「虚構」であるがゆえに、在日も日本人もいっしょに朝鮮文化の「コスプレ」をする。
「虚構」であるがゆえに「コスプレ」でなければならない必然性があるのだ。
だが、浜辺ふうはこの「コスプレ」を「本物」だと勘違いした。浜辺ふうは、希望の家カトリック保育園の多文化共生教育を受け、
多文化共生のまつり東九条マダンに参加し、朝鮮文化のコスプレをしているうちに、その朝鮮文化を自身の文化だと思い違いした。
そして本気で、在日韓国人/在日朝鮮人/日本人も同じ「みんな」だと信じ込んでしまう。
であるがゆえに、在日のこどもしか参加できない在日の民族教育をする「民族学級」が日本人を排除するのは不当だとか、民族学級に入れないことで東九条地域から疎外されただなんだと、
かん違いと被害妄想をこじらせていく。その被害妄想を真に受けた山崎なしは「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」と、
在日を敵視し、東九条地域で在日が日本人を抑圧排除していると荒唐無稽な主張をする。
まさに、浜辺ふう=山崎なしは、仮面ライダーのコスプレをしていた人が、自身を仮面ライダーだと本当に信じ込み、悪の組織ショッカーと現実で戦いだしたのだ。
浜辺ふう=山崎なしにとっての「ショッカー」とは在日のことである。これは明らかに在日への差別や憎悪扇動や攻撃である。
ではなぜ、東九条多文化共生エリアの人たちは浜辺ふう=山崎なしを止めないのだろうか。いや、止めることができないのだろうか。
平山が東九条多文化共生エリアの人たちと個々に話をしたところ、精度の差はあるが、みんな浜辺ふうの表現に問題があるという認識はもっているし、
これまでも浜辺ふうに注意、抗議をした人たちもいる。だが、平山のように「公的」に抗議した者はいない。
何故か?
浜辺ふうがやっていることが、在日への差別であり、侮辱であり、東九条地域の歴史の捏造であること。
これをきちんと筋立てて明証するならば、東九条マダンが「虚構」であること、東九条地域の多文化共生が「虚構」であること、東九条多文化共生エリアが「虚構」であること、
つまり「自分たち自身が虚構である」という「現実」を明らかにした上で明証しなければならないからである。
「自分たち自身が虚構である」という「現実」を明らかにすること。
これが、東九条多文化共生エリアの人たちにはできない。何故ならこれは自己否定になるからである。
いや、それは「自己認識」であって決して「自己否定」ではないのだが、この「自己認識」をするしなやかさが、東九条多文化共生エリアの人たちには無い。
彼女彼らは真面目でやさしいが、硬くて脆い。
であるがゆえに、東九条多文化共生エリアの人たちは浜辺ふう=山崎なしの活動が在日への差別であり、侮辱であり、
東九条地域の歴史の捏造であることを認識しつつもそれを止めさせることもできず、むしろ今でも多文化共生エリアの「みんな」の一員として受け入れ続けている。
つまり東九条多文化共生エリアと浜辺ふうは共犯関係にある。
東九条多文化共生エリアの人たちは浜辺ふう=山崎なしの活動が在日への差別であり、侮辱であり、
東九条地域の歴史の捏造であることを認識しながら浜辺ふうを「みんな」から排除せず受け入れるということで、
「誰の事も排除しない」という「東九条多文化共生エリアという虚構」そのものが強化される。
浜辺ふう=山崎なしも「みんな」から排除されないことで、自身の「虚構」は破壊されず維持強化される。
だが、その結果浜辺ふう=山崎なしによる、在日への差別、侮辱、東九条地域の歴史の捏造は継続され続けるし、平山のような「当事者」はその「みんな」から排除される。
いや、「みんなからの排除」は「みんな」という「虚構」の自己否定になるので、あくまで、「平山は暴力をふるった」ということにしなければならないのである。
「暴力」だけは「みんな」から排除するための口実になるからである。つまり、「虚構」を維持するためにはどこまでも「現実」をねじ曲げなければならない。
そうして「虚構」が「虚構」を生んでいく。
「虚構」が悪いわけではない。「虚構」がなければ人間は生きていくことはできない。
「虚構」だなんだと突き詰めるならば、人間の「認識」自体が「虚構」であり、究極的には「世界」そのものが「虚構」だということになる。
だが、虚構は必要なのだ。虚構があるからこそ「世界」は構築される。「世界」が構築されるからこそ「わたし」がある。
それを自我といっても人格と言ってもいいが、「わたし」とは「虚構」である。
「わたし」という「虚構」が「世界」を「構築」し、「世界」という「虚構」が「わたし」を在らしめる。
だが、そもそもの「虚構=わたし=世界」の発生源はこの「現実」でありこの「身体」である。
そもそも、「虚構=わたし」もまた「現実=身体=自然」から発生したものである。
だが、「虚構=わたし」自身が新たな「虚構=わたし」を発生させることがある。
つまり、「虚構=わたし=世界」は二つある。
①現実から発生した虚構…「身体=現実」から発生した「虚構=わたし=世界」
②虚構が作った虚構…「虚構=わたし=世界」が「虚構」した「虚構=わたし=世界」
の二つである。
「虚構=わたし」がなければ、われわれは意思疎通すらままならないし、社会そのものが成立しない。
「虚構=わたし」が上手く形成できなければ、極端な表現になるが、どこでも糞便をまき散らし、料理を捨てゴミを食べ、唐突に笑い、唐突に誰かを殴り始める。
つまり「虚構=わたし」が無ければ物事の分別はつかないし、秩序だった生活をすることはできない。それは端的に「狂気」である。
古今東西、用を足すのはトイレで、と決まっている。確かにそれは「虚構=社会」だが、それは生活空間を汚染させないため、という必然性がある。
「トイレで用を足したくない、そんな大人が決めたルールに縛られたくない、わたしは図書室でうんこするんだ!!それが自由だ個性だわたしらしさだ!主体性だ!多文化共生だ!!」
と思うのは自由だが、それは狂気である。
「トイレで用を足す=わたし」という「虚構=わたし」をうまく形成できなかった者は「狂気」におちいる。
「虚構=わたし」があるからこそ、剥き出しの「現実」を「世界」として生きることができる。
「わたし=虚構」があるからこそ、剥き出しの「生命」を「人生」として生きることができる。
「社会=虚構」があるからこそ、剥き出しの「自然」を「日常」として生きることができる。
だけどその「虚構」には歴史がある。「虚構」は死者たちからの贈り物だ。「虚構=わたし」は死者たちからの贈り物だ。
歴史を忘れる時、歴史を隠蔽する時、「虚構」が「虚構」を作る時、そして「虚構」が隠蔽される時、現実は狂い、身体は蝕まれ、こころは病み、社会は破壊され、世界は消失する。
東九条マダンを例に見てみよう。
東九条マダンの源流は韓国の「民衆文化運動」にある。
韓国における独裁政権への民主化運動において、エリート層と底辺層とが連帯するために「民衆」は発見され、発明された。
そして当時のエリート層は「民衆」に「変身」しようとしたし、それ自体が独裁政権への抵抗運動となっていた。その「民衆」は確かに「虚構」されたものではあったが、
そこには「抵抗」「連帯」という「現実」に基づいた必然性があった。
・「虚構0」 1970年代 韓国において「発見」「発明」された独裁政権に対抗するための「民衆」を、オリジナルの「虚構0」とする。
・「虚構01」 1978年、「民衆文化運動」を書物で「発見」し、日本に「輸入」したのが梁民基氏である。
梁民基氏は書物の情報を頼りに日本でもマダン劇を上演する。この「輸入された民衆」を「虚構01」とする。
・「虚構2」 1993年、東九条マダンを始めるさいに、「朝鮮文化のまつりを在日も日本人もいっしょにやる」ということの思想的理路が必要になった。
その際、韓国の民主化運動における「抵抗」のための下から上の「垂直軸の民衆」を、
「在日も日本人も同じ民衆」という「連帯」のための「水平軸の民衆」に変換するという「民衆」の概念操作が行われた。この「在日も日本人も同じ民衆」を「虚構2」とする。
・「虚構3」 「在日も日本人も同じ民衆」という民衆概念はやがて「みんな」ということばに変わる。
この「みんな」とは東九条マダンにおける「差異を消滅させる同一性」の思想として駆動する。この「みんな」を「虚構3」とする。
・「虚構4」 この「みんな」が東九条マダンの外の行政、マスコミ、教育関係、福祉関係からは「多文化共生のまつり」と呼ばれだす。
やがて東九条マダンも「多文化共生のまつり」を自称し出す(2008年ころ)。この「多文化共生のまつり」を「虚構4」とする。
・「虚構5」 2018年「多文化共生のまつり」東九条マダンに多大な影響を受けた多文化共生系レイシスト浜辺ふうによる劇団「九条劇」がはじまる。
「浜辺ふう」を「虚構5」とする。
韓国の民主化運動において「発見」され「発明」された「民衆」という「虚構0」が、「虚構01」→「虚構2」→「虚構3」→「虚構4」→「虚構5」と変遷していく。整理する。
「虚構0 韓国の民主化運動」→「虚構01 輸入された民衆」→「虚構2 在日も日本人も同じ民衆」→「虚構3 みんな」→
「虚構4 多文化共生」→「虚構5 多文化共生系レイシスト浜辺ふう」
「虚構0」から「虚構01」は「輸入」であって、当時、日本で「民衆文化運動」をすることは、韓国での民主化運動への連帯という意味もそこにはあったように感じる。
だが大きな質的転換があったのは「虚構01」→「虚構2」である。ここではもはやオリジナルである「虚構0」の、
独裁政権への抵抗という意味は完全に失われ、同じ「民衆」でも全く異なる思想となっている。
つまり、「虚構01」→「虚構2」は、「虚構01」が東九条マダン開催のために人為的につくった「虚構」である。
「虚構が虚構を虚構する」という事態がここで起きたのだ。そしてその後も「虚構が虚構を虚構」する過程が続く。
虚構が虚構を虚構を虚構を虚構を虚構した結果、東九条地域に、日本人を民族学級に入れろだとか、在日に生まれたかっただとか、
通名が無いのが理不尽だとか、民族学級が在特会の事件と重なるだとか、
「(在日の一世、二世の怒りや悲しみ)そういうのに反発するのがモチベーションでやってるんすよね。」と平気で宣う「多文化共生系レイシズム」という「虚構5」が虚構された。
くりかえすが「虚構」が悪いわけではない。「虚構が虚構をつくる」時、その虚構は「病い」となるのだ。
同じ「民衆」という言葉が韓国と東九条で全く異なる思想となるのは当然だろう。だが問題は、その「歴史」が隠蔽されたことである。
浜辺ふうが多文化共生系レイシズムに至ったのはこの「歴史」を伝えてこなかったからである。「歴史」を無視したからである。
浜辺ふうが生まれたのは東九条マダンが始まった1993年。当然のことだが、この「虚構0~4」の「歴史」を知るはずはないし、
浜辺ふうが東九条マダンに関わり始めたのは「虚構4 多文化共生」の頃であろう。
なぜ「虚構」の歴史は隠蔽されるのか。その歴史を明かせば「虚構」が「虚構」だということが明るみになるからである。
「みんな」や「多文化共生」が「虚構」だということを明かしたくない者たちがいたのだ。
それは多文化共生で自己実現したい「二階」の奴らである。だからこそその「歴史」は隠蔽され、語られなくなる。
だから浜辺ふうは
「東九条マダン」自体が「虚構」であること、
「多文化共生」自体が「虚構」であること
を認識していない。その「虚構」を「現実」そのものだと「信じこんで」いる。そして「歴史」を隠蔽した連中にならって、浜辺ふうもまた多文化共生で自己実現しようとする。
「差異を消滅させる同一性」という思想を駆動させる東九条マダンの「みんな」をは年に一度の「まつり」だから許される「虚構」であって、
そのまつりのための「虚構」を「現実」の在日や東九条地域に持ち込めばそれは、差別や収奪、同化の強制にしかならない、ということが浜辺ふうとその関係者には理解できない。
そして周りの大人はその「歴史」を説明することもなければ、「虚構を虚構だ」ときちんと説明もしない。
何故なら東九条多文化共生エリアの者たちは「多文化共生」という「虚構」を仕事にしたり、「多文化共生」によって「自己実現」しているからである。
東九条マダンや多文化共生が「虚構」だと言ってしまえば自分たちの足元が崩れるからである。
だがその「虚構が虚構した虚構」によって現実や身体や生活を蝕まれているのは在日韓国朝鮮人の当事者あり、東九条地域の生活者である。
「東九条多文化共生エリア」とは「虚構が虚構した虚構の地区」である。故に、
「わたしは仮面ライダーだ!悪の組織ショッカーを倒す!」と本気で信じている人間に誰も何も言えない。
「トイレで用を足したくない、そんな大人が決めたルールに縛られたくない、わたしは図書室でうんこするんだ!!それが自由だ個性だわたしらしさだ!多文化共生だ!!」という者に誰も何も言えない。
「日本人を民族学級に入れないのは逆差別だ!東九条では日本人が在日に抑圧されている!」とデタラメを言う者たちに何も言えない。
だが、「あなたは仮面ライダーではないですよ。うんこはトイレでしてくださいね。民族学級に日本人は入れません。」という平山には「暴力だ!!」「警察呼ぶぞ」「脅迫ですよ」と排除抑圧する。
平山が東九条多文化共生エリアで「正気」を保つのに難儀することがわかるだろう。
「虚構=わたし」は「現実」そのもの、「身体」そのものではない。「虚構=わたし」が現実だと思い違いする時、「虚構=わたし」は「病い」となる。
なぜ、「虚構=わたし」を「現実」だと「思い違い」するのか。それは、歴史の軽視、歴史の忘却、歴史の隠蔽があるからである。歴史の隠蔽とはすなわち、「死者の隠蔽」である。
何故死者を隠蔽する必要があるのか?それは「死者殺し」があったからである。
東九条多文化共生エリアで、「死者殺し」、すなわち「歴史の捏造」や「隠蔽」があっただろうことは容易に想像がつく。
いや、実際に、多文化共生に都合の悪い「死者たち」は葬り去られてきたのだろう。そして「死者殺し」をする者は必ず、権力を「簒奪」する。これは古今東西歴史のパターンである。
前川修が権力簒奪者であることは疑いが無い。そして浜辺ふうも無自覚であれ、「死者殺し=権力簒奪」をやっている。
「死者殺し=権力簒奪者」は必ず「思い上がり」そして「わたし」が「虚構」であることすら忘れ、「わたし」が「死者からの贈り物」であることすら忘却する。
「虚構=わたし」が「思い上がる」時、「虚構=わたし」が新たな「虚構=わたし」を「虚構」し始める。
そうして「わたし」も「社会」も病んでいく。
東九条マダンという「虚構」にも歴史があったことを平山は示した。
だが、その「虚構の歴史」すら忘却されている。いや、「隠蔽」されている。もはや東九条マダンは最初っから「多文化共生のまつり」であったかのように語られている。
それに連動して東九条という地域も「多文化共生の街」であるかのように語られている。
本連載≪11≫≪13≫≪14≫においていかに浜辺ふうが東九条についてでたらめの虚構をでっち上げているかを詳細に検証しているが、京都新聞の東九条マダン31回の取材に浜辺ふうが答えた記事、
>浜辺ふうさんは「東九条は多文化共生社会の結果であり過程です」と話した。
これ。
「東九条は多文化共生社会の結果であり過程です」こそは「虚構が虚構を虚構」した「虚構」である。
虚構と言うか、完全な嘘である。そしてこのことばこそが浜辺ふうによる東九条地域への「死者殺し=権力簒奪」である。
だが浜辺ふうはこの「虚構」を本気で信じている。何故なら、東九条マダンが「多文化共生のまつり」だと本気で信じているから。東九条マダンの「虚構の歴史」を知らないから。
だが、大人になれば、その歴史を書籍や資料によって辿ることができるわけで、歴史を辿ず、「自由にうんこしたい!!それがわたしの多文化共生!!」と喚き散らす浜辺ふう=山崎なしはもはや
「思い上がり」も甚だしい。だがそれを助長させているのは前川修を始めとする東九条多文化共生エリアの者たちの「思い上がり」である。
思い上がって自由にうんこするのはいい。問題は、そのうんこを自分で処理しないことである。
うんこしっぱなし、うんこリリースしておしまい。それがFUFUNI浜辺ふうとFUNIのリアルな多文化共Say。
浜辺ふう=山崎なし=ラッパーFUNIに必要なのは「リリース」ではなく「トイレットトレーニング」である。
おまえらは「トイレットトレーニング」という公演をやれ。おまる持って見に行ってやるわ。神田川は風呂桶、東九条は高瀬川でおまるカタカタいわせて待ち合わせ。
あなたのやさしさが怖かった、てケツの穴からラップしろ。
トイレットトレーニングは嫌味でもなんでもない。東九条多文化共生エリアには自身のことばに責任を持つ者がいないのだから。
言いっぱなし、やりっぱなし、浜辺ふうは自分のケツを自分で拭けない。「虚構に虚構を重ねる」。平山からの抗議を一切無視するのは浜辺ふうも、前川修も、ラッパーFUNIも、山崎健太もみな同じ。
汚物を「リリース」しっぱなし。ケツ拭かない、責任とらない、ガビガビ。
汚物とは「現実」そのものである。
自分の吐いたことばに責任をもつこと、それは「虚構」ではない。「現実」だ。だけど、そうやって初めて「虚構」は「現実」となる。
おれは東九条マダンのことを批判しているけど、でも東九条マダンの人たちはちゃんと「現実」と向き合っている。
たとえそれが「虚構」であっても「みんな」という「理想」を実現するために「現実」にのたうち回っている。
それは平山が5年という少ない年数だけど、東九条マダンに参加してよくわかっている。
だからなんだかんだと言って35年も続いているし、毎年多くの人が集まるまつりになった。
おれにとっては気に食わんまつりだけど、敬意はもっているのはあの人らが不完全やけどちゃんとケツ拭いているから。
だけど「京都・多文化交流ネットワークサロン」施設長の前川修はどうだ、浜辺ふうはどうだ。てめえらは、一切自身のことばに責任をとらないし、
「現実」と向き合わず「虚構に虚構を重ねる」だけじゃないか。
おまえらは、もうこれ以上ことばを重ねるな。ことばを吐く前に、「トイレットトレーニング」をしろ。
平山もここ数年、本気で痛んで、悲しんで、怒って、狂ってこうしてことばを重ねているけど、情けなくなるわけよ。
いい年した大人に「うんこはトイレでしましょう」とか「うんこしたらお尻拭きましょうね」とかを叫ぶのが。
情けないのよ。
おれは一体何を言っているのかと。
「二階」からもれたうんこが「一階」に堕ちています!拭いてください!!て。
おれは天にむかって何を言っているのかと。
それはうんこじゃありません!てんぷらです!!
とか「二階」」から言われてもさ、おれはどうしたらええのよ。
本とか読んでしこたま考えてさ、いややっぱりこれてんぷらじゃなくてうんこですよ!とか言うてさ。おれは何をしてるんだって。
てんぷらならまだいいよ。
でも「うんこしてません!!」とか言われてもさ、
いやしてるやん、て。
うんこがうんこであることの存在証明してさ、歴史もさかのぼってこれやっぱりあなたのうんこですよ、て。
そんなことをおれは天に向かって叫ばなあかんてどんな罰やねん。
おれは前世でそうとうな罪を犯したんやろね。償うよ、天に向かってうんこうんこて叫びながら。
東九条、無情。
こいつらはケツを拭く代わりに何をするのかと言えば「隠蔽」である。
うんこをしたことの隠蔽、そしてうんこそのものの隠蔽、である。
だけどその事で何を表現しているのかというと、「わたしはうんこなんかしません」という明らかな「虚構=わたし」の「捏造」である。
人間はうんこをする。これは自然の摂理であり、人間がどこまでいっても自然であることの証左である。
「人間はうんこをする、だけど「わたし」はうんこをしない。」これこそが「虚構による虚構」なのだ。
「わたしはうんこをしない」と平気で「虚構(わたし)は虚構(わたし)を虚構(わたし)」する。
だけどそれは「虚構」であるがゆえに可能なのだ。
「人間は差別する、だけど「わたし」は差別しない」
「人間は暴力をふるう、だけど「わたし」は暴力をふるわない」
「人間は嘘をつく、だけど「わたし」は嘘をつかない」
この「わたし」は「虚構」だ。
もちろん、この「虚構」は必要不可欠なものだ。理想は絶対必要だ、だけどその「虚構」が「現実=身体」を無視して、「虚構=わたし」が「虚構=わたし」を「虚構=わたし」する時、
「わたし」はどこまでも「美化」され
「人間はうんこをする、だけど「わたし」はうんこをしない。」
となる。これは「病気」である。そして人間そのものの否定であり、現実否認であり、「思い上がり」である。
何故なら人間=身体はうんこをするからである。
そして便所以外の場所でうんこをまき散らしながら「わたしはうんこをしていない」と宣うのはもはや「狂気」である。多文化共生の名のもとに。
多文化共生の名のもとに人間を否定し、歴史を捏造し、現実を否認する。
うんこをまき散らしながら「わたしはうんこをしていない」と言い続ける「二階」の世界の者たち。
想像してほしい、平山はこんな「病気」「狂気」と5年程、関わり続けてきたのだ。
そらこの連載も長長と続くて。こっちは「正気」を保つために「狂わざる」をえないのだから。
「わたし」という「虚構」を「現実」だと思い上がるとき、ほんとうに「わたしはうんこをしない」と言い出すのだ。
人間を殺しておきながら「わたしは殺していない」と言い張るのだ。
死者を殺しておきながら「わたしは殺していない」と言い張るのだ。
うんこを巻き散らかしておきながら「わたしはそもそもうんこをしない」と言い張るのだ。
つまりそれが、「虚構を虚構だと認識出来ない時に、人間も社会も病む。」ということである。
そして病んでしまえば、「便所で用を足す」というまともな「虚構=わたし」を形成できなくなり、
「虚構を形成できないときに、人間も社会も狂う。」
という事態に陥る。
そしてこの「病気」→「狂気」→「病気」→「狂気」→「病気」→「狂気」→…
「わたしはうんこしをしない」→「うんこをまき散らす」→「わたしはうんこしをしない」→「うんこをまき散らす」→…
という地獄のループが続く。
「虚構=わたし」を「虚構=わたし」だと認識出来ない時、「虚構=わたし」そのものが壊れるのだ。
そしてそれは「歴史否認」「歴史修正」「歴史消去」によって起きる。
これは東九条だけの話ではない。この日本の社会そのもので起きていることである。
「歴史修正主義」は「社会」そのもの「わたし」そのものを破壊し、病し、狂わせる。
右も左も、保守も革新も、差別も多文化共生も、思想、その前に、まず「トイレットトレーニング」や。
難しいことは言わん。自己啓発もスピリチュアルもマーケティングもブランディングもいらんねん。
「人間はうんこをする。「わたし」は人間である。ゆえに「わたし」はうんこをする。そして『人間かつ「わたし」』だからこそうんこは便所でする、
『「わたし」かつ人間』だからこそ、うんこのあとはお尻をふく。」
これだけ。うんこ四段論法。
うんこ四段論法によって汚れ壊れた「世界」は輝き再生する。
うんこ四段論法によって病んだ「わたし」は再構築される。
うんこ四段論法によって虚構と現実は調和する。
『人間かつ「わたし」』→『「わたし」かつ人間』→『人間かつ「わたし」』→『「わたし」かつ人間』→…
この聖気→正気→聖気→正気→聖気→正気→聖気→正気→…
という循環円環こそが虚構と現実が調和し共鳴した「世界」であり、この「世界」の顕れこそが人間が人間であることの究極の意味である。
この永遠の哲学である「うんこ四段論法」の真理をしっかり認識し、実践してほしい。
用を足すことは即ち、「世界」の再生なのだ。
差異とか同一性とか国民だとか人間だとか虚構だとか虚構の虚構だとかそんなややこしいことは言わん。
東九条多文化共生エリアのみなさん、おねがいです、どうか
うんこは便所でしてください。そしてうんこのあとはおしりをふいてください。
本当に、本当に、本当に、それが、世界から差別と戦争を無くす第一歩です。
トランプを見てください。
うんこをまき散らして、自分のケツも拭かないでしょう。
戦争は「うんこ四段論法」を守れない奴らが始めるのです。
戦争を始める奴は「これは戦争ではない、自衛だ」と言います。それはつまり「わたしはうんこをしていません」という事です。
そう言いながらうんこ(ミサイル)をまき散らし殺戮するのです。「虚構が作った虚構」が「現実=身体」を破壊しているのです。
それは、この東九条というちいさな社会でもおなじ。東九条多文化共生エリアは、死者無き多文化共生以前に、「便所無き多文化共生」なのです。
前川修も、浜辺ふう=山崎なしも「うんこ四段論法」がまもれないだけ。ほかのひとたちもね。
だから、
東九条多文化共生エリアのみなさん、あなたたちには「たぶんかきょうせい」とかむずかしいことはまだ無理なので、
これだけ、きぼうします。
うんこはべんじょでしてください。そしてうんこのあとはおしりをふいてください。
ひがしくじょうたぶんかきょうせいえりあにひつようなのは
ねっとわーくさろんではなく、
希望の便所。
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参考文献
フランソワーズ・ドルト 「無意識的身体像 子供の発達と病理」 榎本譲 訳 言厳社
渡辺哲夫 「二十世紀精神病理学史序説」 西田書店
「死と狂気」 渡辺哲夫 著 筑摩書房
2026年8月16日