「でも、在日朝鮮人の中で、日本文化の現状から、文化的に疎外されている層の人たち、もっと言えば、若い時にあまり学校へも行かなかった、
つまり、教育もあまり受けてない、生活も高くない人たち━もっとも疎外される、文化的に疎外されるという人たちは、生活の面から見ても、
いわば下層の人たち━そういう人たちを、一つの視野に入れて、芸能をいうものを形作っていくことはできないんだろうかということを、僕はその時に感じました。
僕だけではなく、第一回の「アリラン峠」に出た人たちは、皆そのことを思っていたんです。」
「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 p210 梁民基 広島県福山市での講演 私の在日五十年 より引用。
東九条地域に、1993年から始まった「東九条マダン」という「まつり」がある。
「まつり」。「祭り」ではなく「まつり」。平仮名で「まつり」と書くのは意味がある。
東九条マダンは宗教行事としての「祭り」ではない。だから「まつり」である。
東九条マダンホームページ https://www.h-madang.com の 東九条マダン趣旨文から引用する。
以下引用━━━
“マダン”とは“広場”の意味です。
「東九条で、韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い一つになって、みんなのまつりを実現したい」--このような思いをこめて名付けられました。
━━━引用以上
とある。東九条マダンは「在日韓国朝鮮人による在日韓国朝鮮人のためのまつり」ではない。
日本人も主体的に参加する「まつり」であることがわかる。東九条マダンが始まる10年前の1983年、大阪の生野区で「生野民族文化祭」が始まった。こちらのスローガンは
「ひとつになって育てよう 民族の文化を! こころを!」
である。生野民族文化祭りは運営側に日本人は参加できないし、同じ在日でも日本国籍に帰化した在日は参加できなかった。
その是非はともかくそれは生野民族文化祭りが「民族」祭りであるが故であろう。日本人も運営側として主体的に参加する東九条マダンとは随分違うことがわかる。
さらに東九条マダンの趣旨文から引用する。
以下引用━━━
「東九条マダン」は、与えられる文化ではなく、自ら発見し創り出す民衆文化を大切なテーマにしています。
とりわけ在日韓国・朝鮮人にとって民衆文化との出会いはとても貴重なことだと思います。
日本への定住化が進む一方で、韓国・朝鮮人としてありのままに生きることの難しさに悩む「在日」は多いはずです。
いま、民衆文化を受け継ぎ創造していく経験を通して、韓国・朝鮮人としての自分を真正面に見すえ、表現していくことの大切さがあらためて問われています。
━━━引用以上
とある。ここには「民衆」ということばは出てくるが「民族」ということばは出てこない。
そう、東九条マダンは「民族」のまつりではなく、「民衆」のまつりなのだ。
だけど、この「民衆」ということばは東九条マダンのことを非常に誤読させることばである。
東九条マダンが「民衆」のまつりだ、というのは事実や現実ではなく「物語」である。
東九条マダンの演目には、出演者が朝鮮の服を着て朝鮮の楽器を演奏したり、マダン劇という民衆演劇を上演したり、朝鮮の仮面の展示などもある。
確かにそれは「朝鮮の民衆の文化」だ。だけどそれは「東九条の在日の民衆の文化」ではない。
そしてそもそも東九条地域に「民衆」は存在しない。正確には、東九条には「民衆」を自認する住人はいない、という事だが。
そしてさらに言えば、東九条には朝鮮の「民衆の文化」も存在しない。
東九条マダンは主に東九条の外からやってきた在日の二世、三世の世代と日本人が一緒にはじめた「民衆」を自認する階級上昇した大卒の集団が新たにはじめた「まつり」である。
決して東九条の社会の底辺層に居た「民衆」が自発的にはじめたまつりではない。
いわば東九条の「二階」の「まつり」である。
現在、平山が東九条マダンの運営の中核を見渡す限り、そのほとんどが東九条地域の外からやってきた、大卒の人で構成されている。
もちろん少数だが高卒の人もいる。が、代々東九条に住んでいる非大卒者の「一階」の住人は平山だけである。
それが良いとか悪いとかではなく、やはり「一階」と「二階」とではあまりにも感性や考え方が違いすぎる。
だから、東九条の「一階」の住人はこの「まつり」に観客として、あるいは出店の屋台で当日だけ参加することはあっても主体的に作り手として参加することはない。
第5回から第16回の実行委員長を務めた朴実氏は生まれも育ちも東九条の人だが、この年代にめずらしい「大卒」の階級上昇した在日である。
いわば当時のエリート層であって「民衆」ではない。だから東九条マダンは「東九条の在日の民衆の文化やまつり」ではない。
「民衆」という言葉の定義を「支配者層ではない」ということにするならば、階級上昇した「大卒」も支配者層に属さない限り「民衆」だということになる。
だがそれは「被支配者層」として「抵抗運動」をするのであれば階級上昇した「大卒」も「民衆」だと言う事ができるという話だ。
東九条マダンの関係者から昔の話を伝え聞いたり、過去の資料や論文を読んだりすると、
東九条マダンの結成当時はそのような差別や支配者層への怒りや「抵抗」という想いやニュアンスはあったように感じる。
だが、今それが「東九条マダン」にあるかと言えばそれはもう無い。東九条マダンは「被支配者層」の怒りや悲しみを表現する場ではない。
東九条マダンは底辺層の叫びや沈黙に耳を澄ませるような場所ではない。であればもう東九条マダンが「民衆」を自称する必要もないのではないか。
5年ほど、平山が東九条マダンに運営側として参加して率直に感じることは、この「まつり」には東九条の地域の住人は運営としては参加できないだろうなということである。
参加者はみな暴力的ではないし、人権意識も高いし、いい人ばかりだ。
だけど大卒者がほとんどだということは、その運営のフォーマットは大卒者に合わせて形成されているので、非大卒者にはそのフォーマットは合わない。
また大卒者がほとんどであるがゆえに、そのことに気が付く者はいない。
東九条地域に代々住んでいる「根つき」の人間が運営として参加しにくい「まつり」が本当に「民衆」のまつりなのだろうか?
先に、東九条マダンという「まつり」は東九条の住民が自発的に始めたまつりではない。と書いた。
平山が知る限りだが、東九条地域の在日一世二世で、誰一人として朝鮮の楽器を鳴らしたり、朝鮮の踊りを踊ったり、朝鮮の歌を歌う者はいなかった。
そもそもその世代はド底辺のド貧困でそんな文化的なことをしている余裕なんてなかった。
東九条マダンの趣旨文には「民衆文化」ということばが出てくるが、
少なくとも平山が生まれ育った東九条宇賀辺町には、在日一世から引き継がれた在日韓国朝鮮人の「民衆文化」なんてものは存在しなかった。
では東九条マダンがうたう朝鮮の「民衆文化」とは一体どこからやってきたものなのだろうか?
そして東九条にいないはずの「民衆」はどこからやってきたのだろうか?
東九条地域に存在しない「民衆」の「まつり」東九条マダン。東九条地域に存在しなかった「民衆文化」の「まつり」東九条マダン。
「民衆」とは一体何なのか?連載次回は東九条マダンがうたう「民衆文化」および「民衆」はどこからやってきてどこへ消えていくのかを書いてみたいと思う。
参考文献
・「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」梁民基記録集編集委員会
・東九条マダン 報告集 各巻
つづく
2025年9月1日