「仮面劇は演劇であり、それ自体封建体制をくつがえす行動ではむろんないだろう。けれどもそのリハーサルではありえたはずだ。
民衆はこの笑いの攻撃をとおして余裕綽々の気風を培っていく。仮面劇全体に流れているこの陽明性と楽しさは、マルトゥギの勝利感に根差しているといえはしないだろうか。
マルトゥギこそは、「民衆的抗拒の典型」(陳東一)と呼ぶにふさわしい主役であり、民衆の祝祭の演劇が生み出した典型である。」
「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 p87 より引用。
30数年前、東九条に突如現れた「民衆」とは一体何なのか、誰なのか。東九条マダンがうたう「民衆」とは誰なのか何なのか。その起源は韓国の「民衆文化運動」にある。
韓国での「民衆文化運動」は軍事政権への抵抗運動と連動していた運動である。いわば「下から上」への抵抗運動であり、「民衆」とはその抵抗においての連帯を示すことばとなる。
だから大卒のインテリだろうが、下層の民だろうが、軍事政権への「下から上」への「抵抗運動」をする限り、同じ「民衆」なのである。
だが、この「民衆文化運動」や「民衆」が東九条マダンに「輸入」された際に、
「民衆」ということばは「下から上への抵抗運動」という垂直軸から「在日も日本人もひとつのマダンに集い一つになって、みんなのまつりを実現したい」という水平方向に90度傾くことになる。
この韓国の抵抗運動から90度傾いた「水平方向」への指向性が強い「民衆」を東九条マダンでは「民衆」と呼んでいる。
東九条マダンに垂直方向の「抵抗」のニュアンスが無いことはない。
在日も日本人も、障害者も、どんな属性の人間も参加できる「みんなのまつり」をつくるという営為はこの社会にある分断そのものへの「抵抗」だといえる。
また、そのことに関して嘘偽りなく徹底しているということは実際に参加している平山が強く実感している。
ただしそれは、「横の連帯、水平方向の連帯において」はそうだ、ということである。
冒頭に引用した文章の発言の主、梁民基氏は「マダン劇」と言われる韓国の民衆演劇を日本の在日社会に紹介した人である。
「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 p38 猪飼野のマダン劇運動 梁民基 より引用する。
引用━━━
私たちがなぜマダン劇をやるのか。第一に、70年代韓国でおこり全国各地の民衆のあいだに広まった「マダン劇運動」を、同時代に生きる同じ民族の一員として、共有したいからです。
……第二に、在日同胞社会の中で進行している階層分化にともなう文化の偏在現象に注目するからです。
━━━引用以上
「マダン劇運動」とは何なのか?「マダン劇運動」は朝鮮の仮面劇の「タルチュム」の復興運動の流れをくむ運動である。
張起權氏の
「現代韓国における伝統喜劇の継承━1970年代以降の「マダン劇運動」を中心にー」https://keiho.repo.nii.ac.jp/.../1575/files/asia_26_03.pdf
という論文にその詳細が書かれているのでその要点を張起權氏の文章から引用する。
以下引用━━
p40
タルチュムは、韓国の伝統劇の中で演劇としての必要条件が最もよく備わっている。また内容的には、権力や権威、そして社会的不条理に対する痛烈な風刺が多く盛り込まれている。
「マダン劇」はタルチュムの持つこのような演劇性と批判精神を受け継ぎ、現代の風刺画として誕生したのである。
p42
①タルチュム復元期:伝統劇としてのタルチュムを復元し、伝承することを目的としていた時期。原型をそのまま習得し、公演を行うことが活動の中心であった。
②創作タルチュム期:新作のタルチュムが発表された時期。創作タルチュムは、用いられる仮面の形態は原型とは異なるものの、全体の構成はタルチュムの枠を維持していた。
内容もタルチュムと同様に、支配階級と庶民の葛藤が中心となっている。抽象化された仮面や舞を取り入れる場合も次第に増えていった。
③マダン劇運動期:現実社会における問題や不条理に対し、伝統劇による間接的な批判にとどまらず、より積極的に取り組もうという意識からマダン劇が誕生する。
マダン劇は既存の大衆媒体と異なり、創作・演出・演技をまかなう情報の伝達側と、それを受容する観客層が、人間解放と現実改革という同一の目標をもって密着していた。
p44
マダン劇は、既存の演劇思潮の流れの中でその形態として出現した演劇ではなく、むしろ既成の思潮を否定し、それを改善しようという試みから誕生した新たな演劇文化運動であるといえる。
またその基盤には伝統喜劇の精神と形態を現代的に継承しつつ、あらゆる世界において疎外された人々、すなわち抑圧された民衆のエネルギーや願望を表現した演劇である。
これはまさに伝統喜劇タルチュムの中に潜む民衆意識の現代的反映なのである。
━━引用以上
張起權氏の論によれば「マダン劇運動」は反権威、反権力、疎外からの回復、既存の階層秩序からの抑圧への抵抗や解放的な志向性を強くもっていることがわかる。
また、韓国での民主化運動において実際に「マダン劇」が大きな役割を果たしてきた。それはマダン劇だけではない。
さらに髙正子 「〈民俗〉の発見から「伝統文化」の誕生へ」http://www.ackj.org/wp/jcks/010/10-089.pdf からも引用する。
以下引用━━
p94
このように民俗文化とりわけ民俗芸能は、本来の意味に政治的な意味が付与されていった。
その後、ますます政治的行動が制限される閉塞状態に陥ると、民族文化のなかでも仮面劇や巫俗儀礼、パンソリ、民謡のなかの農民的なものを「民衆」と読み替え、諧謔的で風刺的な部分を強調していった。
そこから知識人たちや学生たちは「抵抗の文化」を見出し、それを「民衆文化」としたのだ。
仮面劇の形式を用いつつ内容を現代社会の矛盾を現したマダン劇へと、巫俗儀礼は村落共同体で催されていた大同祭儀に位置づけられ再生産された。
マダン劇を通して「模擬革命」を経験した学生たちは、共同体のモデルを巫俗儀礼のなかから求めるようになった。
多くの知識人や学生、宗教指導者が政府への異議申し立ての行動に向かい、そのことによって投獄されていった。
p96
つまり、政権が推し進める近代化・産業化に必要な文化は「伝統文化」として保護育成し、政権が近代化を阻害するものとして烙印を押した巫俗儀礼の祭堂などは破壊したのだ。
このような朴政権の文化政策に対して、重要な民俗文化が破壊されるかもしれないという危機意識から若い知識人や大学生などは、〈国文学〉を旗印に民俗文化再生運動を繰り広げた。
この運動を通して見出したのが民俗文化のなかにある「民衆」の姿であり、それは同時に「韓国人」という自画像の再発見でもあった。
言い換えれば、朴政権が近代化・産業化を推進するために発掘・保存した「伝統文化」を、政府に対抗する若い知識人や学生は政権の意図とは対極にある「民衆文化」と読み替えたのだ。
この民衆の姿から「韓国人」というアイデンティティを再生産していった。このように韓国社会では「文化」や「伝統」という概念は時代の変遷のなかで本質的に語られながら、重層的に構成されていった。
その本質的な語りは決して一元的なものではなく、同時に「韓国人」というアイデンティティと一対であった。
━━引用以上。
軍事政権への抵抗の手段として「マダン劇」のみならず朝鮮の「民衆」に受け継がれていた巫俗儀礼もその抵抗の手段として使っていたことがわかる。
そしてそれは手段であるにのみならず、そこに「民衆」を見出し、国家という上から押し付けられたアイデンティティではなく、その「民衆」の像から「韓国人」としての「自己像=他者象」を結んでいったことがわかる。
またマダン劇の元となったタルチュムがそうであったように、「下から上」の垂直の指向性が非常に強い表現であることがわかる。
この「マダン劇」を韓国の「民衆文化運動」とともに日本紹介したのが梁民基氏である。1981年に梁民基・久保覚編訳「マダン劇と仮面劇 韓国の民衆演劇」を出版。
1982年、「マダン劇の会」結成に関わる。マダン劇『アリラン峠』を大阪で上演。1983年から始まる生野民族文化祭りにも関わっている。
1986年、京都で梁民基しの呼びかけによりマダン劇「テジ(豚)プリ」が公演される。
これを機に東九条を中心に活動する「民族民衆文化牌ハンマダン」が結成される。
「民族民衆文化牌ハンマダン」のメンバーを中心に1993年第一回の「東九条マダン」が開催される
。
「民族民衆文化牌ハンマダン」も「東九条マダン」もその表現形式は朝鮮の文化でありながら、在日韓国朝鮮人も日本人もともに参加する。なぜなら
在日も日本人も同じ「民衆」だからである
という理路である。だから同じ「民衆」ということばでも、韓国における「民衆文化運動」や「民衆」ということばのもつ意味とは随分異なるものだということがわかる。
冒頭に書いたように、韓国での「マダン劇」、「民衆文化運動」、または「民衆」ということばが「下から上」という垂直方向の指向性を持っていたのに対して、
東九条マダンにおいて「民衆」の意味は90度傾き、「在日も、日本人もともに」という横の連帯のための「水平方向」に広がる指向性となる。
そこでもう一度「東九条マダン」の趣旨文を引用する。
以下引用━━
“マダン”とは“広場”の意味です。「東九条で、韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い一つになって、みんなのまつりを実現したい」--このような思いをこめて名付けられました。
「東九条マダン」は、与えられる文化ではなく、自ら発見し創り出す民衆文化を大切なテーマにしています。とりわけ在日韓国・朝鮮人にとって民衆文化との出会いはとても貴重なことだと思います。
日本への定住化が進む一方で、韓国・朝鮮人としてありのままに生きることの難しさに悩む「在日」は多いはずです。
いま、民衆文化を受け継ぎ創造していく経験を通して、韓国・朝鮮人としての自分を真正面に見すえ、表現していくことの大切さがあらためて問われています。
━━引用以上
ここに出てくる「民衆文化」とは梁民基氏が紹介した韓国の「民衆文化運動」における「民衆文化」のことなのだが、
ここまで見てきたように、その「民衆」は韓国から東九条に「輸入」された際に垂直軸から水平軸への90度傾いた「民衆文化」である。
そしてその「民衆文化」は当時のエリート層である梁民基氏が伝えたものであって、それは東九条の「一階」の住人にとっては、「二階」の「上から下」に突如降ってきた「文化」に見える。
例えば、在日一世の平山の曾祖父曾祖母の世代が朝鮮の舞踊を踊り、
朝鮮の楽器を日本でも演奏していて、それが祖父祖母の世代、父母の世代、そして平山の世代に脈々と引き継がれていったようなものを「在日の民衆文化」というならわかる。
だけど東九条マダンで発表されている「民衆文化」はそういう類のものではない。
東九条マダンは東九条に代々住んでいた「底辺層」の「一階の住人」が始めたまつりではない。
当時のエリート層だった「二階」の在日が韓国から「輸入」してきた「民衆文化」だ。これを果たして「民衆文化」と呼称してもいいのだろうか?
そしてそれを「東九条」という地域でやることの意味は何なのだろうか?少なくとも平山は、東九条マダンを「民衆文化」だと言われても、全く現実味を感じないし、
その「民衆文化」は自分自身の45年の東九条での生活や人生の中に無かったものである。曾祖父の代から東九条に住んでいる平山が全く現実味を感じない「民衆文化」、
そして「東九条マダン」とはいったい何なのだろうか?東九条マダンとは一体誰なのだろうか?そしてそもそもおれは自分が「民衆」だと自覚したことは一度もない。
おれは「民衆」ですらない。おれだけじゃない。自分自身が「民衆」だと自覚して生活している東九条の住民はいったいどれほどいるのだろうか?東九条の地域住人は「民衆」という「物語」を生きてはいない。
だけど、「東九条マダン」は「民衆」の「まつり」である。この乖離。
この乖離とは、
・自らを「民衆」だと自認することができた階級上昇した「二階」の集団と、
・自らを「民衆」だと認識すらできなかった底辺層の「一階」の集団、
との乖離である。この乖離こそがそのまま「階級」の差なのだ。
この乖離はあってもいい。ある意味この乖離があるからこそ「東九条マダン」はできるのだ。
だが、この「乖離があることがもはや認識すらされていないこと」こそが問題なのだ。
しかし、梁民基氏は確実に、身をもってこの「乖離」や「階級」を自覚していた。だからこそ韓国で起きた「民衆文化運動」に人生かけて共鳴したのではないのか。
もう一度、冒頭の「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 p210 梁民基 広島県福山市での講演 私の在日五十年 より文章を引用する。
以下引用━━
「でも、在日朝鮮人の中で、日本文化の現状から、文化的に疎外されている層の人たち、もっと言えば、若い時にあまり学校へも行かなかった、
つまり、教育もあまり受けてない、生活も高くない人たち━もっとも疎外される、
文化的に疎外されるという人たちは、生活の面から見ても、いわば下層の人たち━そういう人たちを、一つの視野に入れて、芸能をいうものを形作っていくことはできないんだろうかということを、
僕はその時に感じました。僕だけではなく、第一回の「アリラン峠」に出た人たちは、皆そのことを思っていたんです。」
━━引用以上
ことばを持たなかった、ことばをもつことが出来なかった者の苦しみ、悲しみ、惨めさ。生まれ育ちで人生が決まってしまうという痛み。
だけどせめて我が子や孫だけは少しでも階級上昇させてやりたいという小さな願い。梁民基氏はそんな苦しみ、悲しみ、惨めさ、痛みや小さな願いを身をもって知っていた人なのだと思う。
そして自身が階級上昇したエリート層だからといって、下の世界を切り捨てず、本当に「民衆」とともにあろうとした人なのだろうと思う。
そのために自身の知性や精神を「民衆」に捧げた人なのだと思う。「かわいそう」だとかそういう同情ではなく、本当に「民衆」とともに在ろうとした人なのだろうと、梁民基氏の文章や公演を読んで実感する。
そういう下層の人たちへの想いや感性が無いなら、社会の底辺を生きる人が「見えない」なら、「二階の集団」が「民衆」を自認する資格などない。
今現在、東九条マダンのメンバーで、あるいは東九条地域の「多文化共生エリア」において、この社会の底辺への「垂直」の目線や想いや感性を持っている人がいるだろうか?
あるいはこの社会には残酷なまでに「階級」があるということを認識した上で「みんなのまつり」や「多文化共生」をやっている人がいるだろうか?
おれは、いないと実感する。それも仕方がないことではある。東九条といっても昔に比べれば、様々な団体や行政の取り組みの結果、その暮らしは随分改善されたし、「ことばを持たない人」の苦しみ悲しみを現実に知る人も減った。
それに加えて東九条マダンや「多文化共生エリア」の集団はほとんどが階級上昇した大卒の集団なのだから、そこに「階級」があることは意識されることは無い。
そして東九条マダンに特有の「民衆」ということばの「水平方向性」が「階級」をさらに見えなくさせてしまう。
だが「垂直方向」の志向性や感性や感受性を失ったのならばもはやそれは「民衆」の「まつり」ではないだろう。
そして何より、「東九条マダン」の核にあった「民衆文化運動」は30数年の過程で今や「多文化共生」ということばに置き換わった。
このことによって東九条マダンにもまだあった、垂直軸の方向性や感性は完全に消えたと言えるだろう。
もはやそこに「民衆」すらいなくなったのだ。
では「民衆」すらいなくなった現在の「東九条マダン」は一体誰のための何のための「まつり」なのだろうか?そして「民衆」ですら無くなった「東九条マダン」とは一体「誰」なのか?連載次回に書いていきたいと思う。
参考文献
・「みずからの文化を創り出す 梁民基記録集」 梁民基記録集編集委員会
・「梁民基とマダン劇―「自らの文化」創造の過程―」 西川紗生
https://khrri.or.jp/publica.../docs/202007025006(1521KB).pdf
・「在日朝鮮人の民衆文化運動の思想とその論理 ━梁民基の作品に注目して」山口健一
https://buraku-study.org/pdf/bulletin21-2.pdf
・「在日朝鮮人の個人主義的な民衆文化運動と共生実践―― 内発的で普遍主義的な文化の研究――」山口 健一
https://www.jstage.jst.go.jp/.../61/2/61_21/_pdf/-char/ja
・「現代韓国における伝統喜劇の継承━1970年代以降の「マダン劇運動」を中心にー」張起權
https://keiho.repo.nii.ac.jp/.../1575/files/asia_26_03.pdf
・「〈民俗〉の発見から「伝統文化」の誕生へ」髙正子
http://www.ackj.org/wp/jcks/010/10-089.pdf
・「「クツ」の畏族性-1970'"'-'80年代の「民衆クッ」を中心として一」金泰順
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/29663/files/4.pdf
・「在日韓国・朝鮮人運動のカルチュラル・ターン――生野民族文化祭における〈民族〉と〈楽しさ〉――」稲津 秀樹
https://library.kwansei.ac.jp/profile/jc06_02.pdf
つづく
2025年9月4日