【読書感想文】
『自己愛障害の臨床 見捨てられと自己疎外』
カトリン・アスパー[著] 老松克博[訳]
ずっと苦しかった。思いつく具体的な理由は様々ある。だけど苦しみの根本は、本当に苦しむ事ができないという事の苦しみだった。
本当の苦しみが偽りの苦しみに覆われていてちゃんと苦しめない苦しみ
ちゃんと苦しみたい為に、所謂「自分探し」が始まる。だけれども「自分探し」とは半分は「母親探し」の事である。
もちろんそれは現実の母親の事ではない。理想の母親の事である。理想の母親探しをマザコンといって笑い捨てるはできない。
誰にとっても母親の不在は深刻で切実な問題だからだ。
自分を無条件に愛してくれる何か、献身的に養育してくれる何か、無制限に賞賛してくれる何か、その母親のような何かを恋人や伴侶に求める場合もあれば、
会社や組織、趣味、芸術行為、自然、宗教や神にまで求める人もいる。だがそれは最後必ず失敗に終わる。そんな他人や集団はどこにもいないからだ。
誰かが誰かの母親代わりになる事などできない。失われた理想のこども時代はもどってこない。絶対に。
だから結局は自分自身が自分自身の「よき母親」になるしかない。勿論それは自画自賛や自己憐憫に耽溺するという事ではない。
自分自身が自分自身の「よき母親」になるとはどういう事なのか。本書p186
「…自分自身への憐みー共感ーを持たなければ、自己愛の問題をめぐっては、何ら変容しない、この憐みは肯定的な母親元型の現れである。
自分自身をどれくらい母性的にケアできるか…肯定的な母親元型が布置されるとはその人が自分の感情、苦しみを経験できるということでもある。」
母性の偉大な力とは、安全に、安心して苦しみ、悲しむ事ができるようになる事なのだと、私は思う。
母性が欠けていると苦しむ事、悲しむ事ができなくなる。苦しむ事、悲しむ事、痛みを感じる事ができない事は端的に自己喪失である。
だから必然的に自分探しをする事になる。母性が剥奪されているが故に。
母性は過剰であっても過少であってもいけない。ほどよい母性(p68)がちょうどよい。過剰な母性はこどもを「見捨てる」事に等しい。
本書でこの知見に出会って私は救われた。愛されてはいるのだが、同時に棄てられてもいる感覚。これは何なんだろうといつも思っていた。
本書は自己愛障害に関する本だが、その焦点は主に母子関係に当てられている。どのページをめくっても、どこを読んでも「わたし」の事が書いてある。
本書に出会ったのはたぶん20代中盤だったと思うが、ページをめくるたびに涙した記憶がある。私が何に苦しんでいたのかが分かったからだ。
本書は自己愛障害に関する専門的な理論の解説もされているが、殆どは具体的な臨床例とおとぎばなしの解釈を基に論が進められているので
専門的な知識が無くても読みやすい。また専門的な議論の箇所は読み飛ばしても大切な核はつかめるようになっている。
本書から得られる「共感」だけでも価値はある
もしかしたら本書は私にとっての「理想の母親」だったのかもしれない、と言うと理想化が過ぎるが、
もし私が本書と出会っていなかったらたぶん、もう私はこの世にはいなかったと思う。それほどまでに私を救ってくれた書籍。
共感する箇所が多すぎて、たくさん引用したい箇所はあるけれども
p249「苦しみを認めることは、より広い意味では、自分の欲求に気づくことでもある。…自己愛の傷付いた人たちは、
他人の欲求や期待についてはしばしば敏感に感じ取るものの、自分の苦しみはほとんど意識していない。
自分の欲しているものを知るには、苦しみを受け入れる必要がある。」
苦しみを認めること。はまだまだ私もできていない事だけど、本当の苦しみにたどり着くまで、
偽の苦しみをはがしていかなければならない訳で、それはすぐにできる事ではない。何年何十年もかかるだろう。
だけど本書は本当の苦しみ=本当のわたしに至る指針となるし、その為の様々な知見にあふれている。
どこにでもいるふつうの女性がこどもを身籠ったとたんに「母親」という大役を任せられるわけだから、
そんな大役を完璧にこなせる人なんている訳がない。だから現実の母親を責めてもしゃーない。
彼女は彼女なりにその時の環境下でできる事をやっただけなのだから。「母親」と「その人自身」は違う。
だけど私自身が私自身の「良き母親」になる事はできる。男女平等や女性差別の解消というのはひとりひとりが自分自身の母親になれるかどうか、
という処にもかかっていると思う。母親離れする事だけが自立なのではなく、自分自身の母親に「なる」事が自立と共存を実現する、のかもしれない。
p100「このおとぎ話では、父性的態度よりもむしろ母性的態度に伴って変容が生じた点に注目したい。すなわち、
洗うことと温めることこそが竜を救ったのである。…このリトアニアのおとぎ話では、普通なら期待される竜殺しは行われず
女性的価値と行為が取り入れられている」
英雄が竜を倒す(=母親殺し)、という男性的なパターンではなく竜を女性的、母性的な営為で救う。
この感覚が特に今の時代に必要なのだと思う。わたしが救われるという事は、母親や母性が救われるという事でもある。
倒すべき竜、ではなく、救われるべき竜がわたしを待っている。
本書の「見捨てられと自己疎外」という副題が示す通り、万人が万人を見捨て合っている今の時代にこそ必要な本。
また母子関係に懊悩し、七転八倒、殺伐躁鬱殺伐躁鬱する人に共感と知見と希望をもたらすすばらしい書籍。いつものことながら、
厳しい人の書く本は、とてもやさしい。きびしくやさしい本。